朱ソウ
明の皇族。秦愍王。
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生涯
洪武帝の次男として生まれる[1][2]。洪武3年(1370年)に秦王に封ぜられ、洪武11年(1378年)に西安へと赴任した[3][2]。
洪武22年(1389年)、宗室を管理する大宗正院が宗人府と改められ、朱樉はこの長である宗人令とされた[3][4]。洪武24年(1391年)、過失が多いとして首都の応天府へと呼び戻されたが、兄の朱標の取り成しにより罪を免れ、洪武25年(1392年)に西安へ帰還した[3][4]。
洪武28年(1395年)には将軍の甯正らを率いて洮州へと遠征に出て、これを降した[3][5]。洪武帝は喜んだが、同年3月に死去した[3][5]。享年は40[5]。愍の諡号が贈られた[3]。長男の朱尚炳が後を継いだ[3]。
朱樉の死因について『明史』には何も書かれないが、『太祖皇帝欽録』には朱樉が毒殺されたのではないかと述べる洪武帝の手簡が残る[6]。