朱瑄
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経歴
私塩業者の朱慶の子として生まれた。朱瑄は青州に逃亡し、平盧軍節度使の王敬武の牙卒となった。中和元年(881年)、黄巣が長安を占拠すると、僖宗が詔を発して天下の兵を召集した。王敬武は牙将の曹全晸に兵3000を率いさせて関西の救援に赴かせ、朱瑄を軍候とした。しかし青州が危急に陥ったため、王敬武は曹全晸を召還し、曹全晸は鄆州に立ち寄った。先だって天平軍節度使の薛崇が王仙芝の反乱軍に殺されたため、鄆州の将の崔君裕が権知鄆州事をつとめていた。曹全晸はその兵の少ないのを知って、崔君裕を襲撃して殺し、鄆州を占拠して、留後を自称した。朱瑄は功績があって、濮州刺史を代行し、鄆州馬歩軍都指揮使をつとめた[6][3][4]。
中和2年(882年)、魏博節度使の韓簡が鄆州を兼併しようと、兵を率いて済河を渡った。曹全晸は出兵して迎撃し、魏博軍に敗れて戦死した。朱瑄は敗残の兵を糾合して、鄆州城を守った。韓簡は半年にわたって、鄆州城を包囲したが、攻め落とすことができなかった。中和3年(883年)2月、朱瑄は韓簡に講和を求め、魏博軍は撤退した。7月、朱瑄は天平軍節度使に任じられ、検校太尉・同中書門下平章事となった[7][3][8]。
ときに朱瑄は3万の兵を保有しており、その従弟の朱瑾はその武勇が三軍に冠絶していた。蔡州の秦宗権の勢力が盛んで、しばしば鄭州や汴州に進攻していた。汴州の朱全忠は秦宗権の軍の攻撃を受けて窮迫し、朱瑄に救援を求めた。光啓3年(887年)、朱瑄は朱瑾に命じて軍を出し、朱全忠を救援させた。秦宗権を撃破すると、朱全忠と朱瑄の関係はきわめて良好になった[7][9][10]。
龍紀元年(889年)、秦宗権が敗死すると、朱全忠は徐州を攻撃した。徐州の時溥が朱瑄に救援を求めたので、朱瑄は朱全忠に手紙を送って、時溥を許して修好するよう求めた。朱全忠は時溥が淮南節度使の孫儒と通じていることに怒っていたため、朱瑄の言に従わなかった。龐師古が徐州を攻撃すると、朱瑄は朱瑾を派遣して時溥を救援した。景福元年(892年)、朱全忠が大挙して鄆州に進攻した。朱全忠の長男の朱友裕が先鋒として汴州の斗門に駐屯すると、朱瑄は斗門を夜襲した。景福2年(893年)、朱瑄は朱瑾とともに汴州の軍と魚山のふもとで大戦したが、敗戦して多くの兵士を失った。乾寧元年(894年)、朱瑄は朱全忠と東阿県で戦い、その焼き討ちを受けたが、南風が急に起こって風下に立った汴州の軍を撃退した。乾寧2年(895年)、朱友裕に兗州を包囲され、朱全忠に鄆州を攻撃された。乾寧4年(897年)1月、鄆州城中の食糧が尽き、龐師古が鄆州城を攻め落とすと、朱瑄は中都県の北に逃れて民家に匿われていたが、妻の栄氏とともに捕らえられ、汴橋の下で斬られた。栄氏は汴州で尼となった[7][11][12]。