松前矩広
日本の大名
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生涯
万治2年(1659年)、第4代藩主・松前高広の長男として誕生。寛文5年(1665年)11月6日、父・高広の死去により、家督を相続する。同年11月15日、第4代将軍・徳川家綱にお目見えする。貞享元年(1684年)12月15日、従五位下志摩守に叙任する。
寛文9年(1669年)、シャクシャインの戦いが勃発した際、矩広は幼年であったため大叔父の松前泰広が補佐してこれを制圧した。矩広が襲封したのは父・高広と同じ7歳であり、そのため藩主一門及び有力家臣が藩政を左右した。やがて一門同士の争いは家老の変死事件を引き起こし、天和元年(1681年)に「松前家中仕置等宜しからず[3]」との老中からの注意が記録されている。また、この頃より砂金の採取量の減少を始めとする財政難が顕著になっていく。
享保元年(1716年)1月13日、嫡子であった次男富広が死去したため、一族の松前本広の六男邦広を養子に迎えた。
元来、松前氏は米が穫れない蝦夷において無石の島主扱いの交代寄合でしかなかったが、享保4年(1719年)正式に大名に昇格して1万石格の松前藩がようやく成立した。
享保5年(1720年)、死去。享年62。