林氏
尾張国を拠点とした氏族。林秀貞が著名
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尾張林氏
美濃旗本の林氏
林通村(駿河守)が美濃国安八郡林村に住んでいた時に林姓を称したのが始まりである。3代子孫の林勝利は織田信長に属した。
旗本初代の林正利(丹波守)は、林勝利の子で小早川秀秋に仕え関ヶ原の戦いで戦功を挙げた。
慶長7年(1602年)に小早川秀秋が没すると、慶長8年(1603年)に江戸へ出て徳川家康に仕え、可児郡と中島郡に計2,000石余を与えられ旗本となった。
正利(丹波守)-勝正(丹波守)-勝明(権左代門)-正栄(主水)-正虎(権左衛門)-正員(五郎)-正富(左京)-正義(賢次郎)-正敷(新五郎)-正愛(庫之丞)
幕末には可児郡根本村に陣屋を構えたが、正愛(庫之丞)の代に明治維新となり、明治2年(1869年)版籍奉還となった。
林氏の知行所
- 美濃国
- 中島郡 江吉良村(682石9斗8升9合9勺9才0撮)
- 可児郡 大原村(491石0斗4升9合9勺8才8撮)・塩村(478石0斗5升9合9勺9才8撮)・根本村(273石4斗5升5合9勺9才4撮)・小木村(84石3斗0升0合0勺0才3撮)
周防林氏
仙台藩士越智姓林氏
『角川日本姓氏歴史人物大辞典4 宮城県姓氏家系大辞典』に、平士150石の仙台藩士に越智宿禰で稲葉氏一族の四門氏を祖とする林氏がある。稲葉通富の子である林通兼の子の林新左衛門通安の数世孫の四門四郎兵衛を祖とする。
四門四郎兵衛は堀秀政の堀氏に仕え、慶長年間に近江国岡村に住んで岡村氏を称する。子孫は福島正則の家臣になった後に江戸幕府幕臣となるが、正徳5年(1715年)に浪人となった。その後幸運にも幕府に召抱えられ書物奉行(620石)となったが(岡村良通。召抱えられた時期は不明)、謹厳実直で上司とあわず1741年に職を辞し浪人になった。良通にはさる大名家で3千石の家老職を勤めていた兄がおり子供を預けようと訪れたが、主君に諫言死した後だったため、結局葬儀で会った弟の林従吾道明に子供を預けた(道明が林姓に復姓した時期は不明)。
道明は開業医であったが後に仙台藩医となり、良通の娘で道明の姪である「なほ」が仙台藩に奉公に上がる。なほは伊達宗村に見初められの側室となり、その影響により弟の林友諒が仙台藩士となり、以後続いていく(なほは宗村死後出家し円智院となる)。林友諒の弟の林子平は寛政の三奇人の一人として知られる(子平も部屋住みから仙台藩士に取り立てられたが、自らの献策が取り上げられないのを嘆き自ら部屋住みに戻った)。
三河林氏
甲斐源氏・小笠原氏の傍系であり、松平親氏の頃より松平氏(徳川氏)に仕えたとされる譜代家臣。信濃林城を築いた府中小笠原家の小笠原清宗の次男の林光政を始祖とする。
江戸時代後期までは代々旗本であったが文政8年(1825年)、11代将軍徳川家斉に寵用された林忠英が加増されて貝淵藩1万石の大名に列せられる。忠英は家斉存命中に最大で1万8千石を領したが、12代将軍徳川家慶の代に粛清されて1万石に減封される。子の忠旭の代に陣屋を移して請西藩が成立した。幕末、請西藩第3代(通算で4代)忠崇は、藩主であるにもかかわらず自ら脱藩、30人ほどを率いて旧幕府軍の遊撃隊に入り、戊辰戦争に参戦したことで請西藩は改易となった[3]。
前藩主忠交の嫡男(幼少だったため分家の忠崇が継いでいた)の忠弘に改めて300石が与えられて家名存続が許されたが、大名の地位を失ったため、士族編入となった[3]。明治22年に旧臣だった広部精や大野友弥らが宮内大臣土方久元宛てに林家の叙爵請願書を提出、旧諸侯の中で旧主林家のみが士族に編籍され、同様に佐幕派として朝廷に抗した会津松平家や仙台伊達家らは減封されながらも諸侯の地位を維持して華族に列している点を挙げ、林家も華族編列があるよう請願した[4]。また同年と明治25年に本家筋の小笠原忠忱伯爵からも林家の授爵請願が寄せられたが、この時点では不許可となった[4]。
しかし明治26年の授爵請願の際に稲田家とともに林家についても宮内省の審議に乗った。その中で、脱藩した昌之助(忠崇)の罪は、藩を挙げて王師に抵抗した松平容保、伊達慶邦、松平定敬、板倉勝静よりも軽いものであるべきはずなのに、この4家がいずれも家名再興を許されて藩屏の列に復して今日皆華族の地位を得ているのに対し、林家だけ士族になっていること、また昌之助の受けた処罰も容保らと同じ永禁固刑であり、降伏時期の遅れについても林家だけが特別に詮議があったという事実はなく、容保らより重い処罰を受ける根拠はないこと、また、一族が証明する所によれば、林忠弘の所有地所は田畑七町五反二畝二十歩、宅地六百六十三坪、時価にして凡そ一万一千余円あり、一年間の所得高金も六百余円あることから華族の体面を維持するだけの財産も保持しているといえることなどが認められた。その結果、林家の華族編列・授爵は妥当と結論され、9月14日に明治天皇の裁可を得て、翌月20日をもって林忠弘は華族の男爵家に列した[5]。
加賀林氏
林家
系図
| 斎藤宗助 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 林貞宗1 | 富樫家国 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 貞光2 | 利波豊久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 光家3 | 成家 | 女 | 石黒光久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 光明4 | 大桑利光 | 豊田光成 | 松任範光 | 板津成景 | 倉光成澄 | 宮永国員 | 光興 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 光平5 | 安田惟光 | 山上光隆 | 横江基光 | 近岡利明 | (石黒氏) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 光在6 | 林家朝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 光起7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 兼光8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 則兼9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 正兼10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 正光11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 兼松正輝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
