桂枝太郎
日本の落語の名跡、当代は3代目
From Wikipedia, the free encyclopedia
初代
初代桂 枝太郎(かつら えだたろう、1866年2月[要出典](慶応2年) - 1927年2月6日)は、明治から大正にかけての上方落語[注釈 1]の落語家[1][注釈 2]。本名: 岩本 宗太郎[1]。
来歴 (初代)
京都に生まれる[1]。幼少の頃に父を亡くしたため、2代目桂猫丸(2世曽呂利新左衛門の門下)が養父となる[1]。
初め6歳で桂慶枝(のちの3代目笑福亭松鶴)に入門する[1]。1875年ころに[要出典]2代目月亭文都の門下で春之助を名乗るが、文都と養父の対立により、養父に連れられて梅幸の名で旅巡業に出る[1][注釈 3]。1885年、養父の死去に伴い京都に帰り、3代目笑福亭松鶴の門下で5代目笑福亭吾鶴(あるいは3代目桂文吾の門下で桂吾鶴)を名乗る[1]。京都では幾世亭に出演した[1]。
1886年に上京して、翌年まで関東地方を巡業する[1]。1887年、上方に戻って2代目桂文枝の門下に移り、初代枝太郎を名乗った[1]。
1927年2月6日に死去[1][注釈 4]。享年62(満60歳もしくは61歳没)[1]。墓所は京都市東山の本壽寺[1]。法名: 妙法桂宗院英枝居士[1]。
芸風・人物 (初代)
京都在住だったことから「先斗町の枝太郎」と俗称された[1]。
歯切れのよさは当時上方落語では希少だった[1]。『古今東西落語家事典』は「写実を超越した、いわば南画を見るような、線の太い芸風」と評している[1]。『堀川』『紙屑屋』『大丸屋騒動』などネタの大小に関わりなく持ち味を発揮し、特に『莨の火』は評価が高かった[1]。SPレコードに『雷の褌』という小噺を録音している[1]。
一門弟子 (初代)
らがいる。
2代目
| 2代目 | |
| 本名 | 池田 芳次郎 |
|---|---|
| 生年月日 | 1895年5月7日 |
| 没年月日 | 1978年3月6日(82歳没) |
| 出身地 | (現・東京都中央区) |
| 師匠 | 3代目古今亭今輔 6代目雷門助六 6代目春風亭柳枝 2代目桂小文治 |
| 名跡 | 1. 古蔵宝輔 (1917年) 2. 雷門雷好 (1924年 - ?) 3. 春風亭枝好 (時期不明) 4. 3代目春雨家雷蔵 (? - 1938年) 5. 初代桂小金治 (1938年 - 1943年) 6. 2代目桂枝太郎 (1943年 - 1978年) |
| 活動期間 | 1917年 1924年 - 1978年 |
| 活動内容 | 新作落語 |
| 所属 | 日本芸術協会 →落語芸術協会 |
| 受賞歴 | |
| 藍綬褒章(1977年) | |
2代目桂 枝太郎(かつら えだたろう、1895年5月7日 - 1978年3月6日)は、大正から昭和にかけての東京の落語家。本名∶池田 芳次郎。落語芸術協会に所属した。出囃子は『串本節』。
来歴 (2代目)
東京府東京市日本橋区日本橋本石町(現・東京都中央区)の工業薬品商の次男として生まれる[3]。本石町常盤小学校(現:中央区立常盤小学校)を4年で卒業後[注釈 5]、引き続き高等科に進み2年を満了した[3]。1908年に青山学院に入学する[注釈 6]。その後、明治薬学校(現: 明治薬科大学)に親の意向で入学させられた[3]。しかし学業は性に合わず、浅草で遊び歩く生活を送る[3]。21歳の頃、日本橋中洲にあった真砂座が創刊した『演芸新聞』で「浅草支局長」に任命され、「住吉のぶ代」というペンネームで色っぽい記事を書いていたところ、活弁の生駒雷遊から熱烈なラブレターが届いたという[3]。
1917年12月、3代目古今亭今輔に入門[3]。しかし「古蔵宝輔」(ふるぞうほうすけ)と意に沿わない名を与えられた上、生活を顧みない芸人社会に失望して、半年で廃業[3]。兄を追って相場師になるも、1923年の関東大震災で断念した[3]。
あきらめきれずにいたところ、1924年に橘家花圓蔵(川崎仙太郎)からの勧誘に応じて演芸の世界に戻る[3]。6代目雷門助六門下で雷門雷好を名乗る[3]。次に6代目春風亭柳枝のもとに移り、春風亭枝好となる[3]。不景気な時代に、旅回りで名古屋市に行った際に3代目春雨家雷蔵を名乗り、さらに旅回りを続けた[3]。
1938年に2代目桂小文治門下となって初代桂小金治を名乗る[3]。1943年4月、真打に昇進し2代目枝太郎を襲名した[3]。
女には奥手だったが、太平洋戦争後に50歳を超えてから戦災未亡人と結ばれた。しかし、数年して死んだはずの夫が復員してきたという。すでに大看板となっていた枝太郎であったが、数年間どこで何をしているか行方不明の失跡状態となった(実際は大阪にいた)。帰京後、住んでいたアパートに偶然東洋興業(浅草フランス座)の従業員が住んでおり、彼を介して浅草フランス座内に寄席(定席)、「東洋劇場」を作らせることに成功した。これが現在の「浅草演芸ホール」の前身である。[要出典]
1950年からはボランティアも積極的に行い、少年院・刑務所などで落語を演じたほか、篤志面接委員となって在院者・受刑者達の更生に尽くした[3]。その功績により1977年(昭和52年)6月に藍綬褒章を受章している[3]。また、川柳・都々逸作家として落語家の川柳の会「鹿川会」を主宰したため、柄井川柳と同じ台東区蔵前の龍宝寺に墓所がある[要出典]。
芸風・人物 (2代目)
『自家用車』『子故の春』などの新作落語を得意とし、『焔火百話』などの随談もの、『磯のあわび』などの廓噺も手がけた[3]。『古今東西落語家事典』で2代目枝太郎の項を担当した橘左近は「独得(原文ママ)のフラ(特長のあるおかしさ)と柔軟な話術は、陽気でのどかな屈託のなさが味となって(中略)悠然と歩み続けた」という評を記している[3]。