桂枝雀
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経歴
大阪の足袋商「古滿屋」の子として生まれ、家業を継いだが、芸事に興味を持ち地歌や舞踊の稽古に通う[2]。後、友人の勧めで、上町にあった素人落語の「緑連」に加わり、「喜代丸」を名乗る[2]。1884年11月、2代目桂文枝に入門し、枝雀を名乗り、生涯変えなかった[2]。1898年に真打となる[要出典]。
所属していた桂派は3代目桂文三が離脱して衰勢に入る[3]。さらに3代目桂文枝没後に凋落が加速する中、2代目桂南光らとともに同派の中心的なメンバーとなる[2][注釈 1]。しかし、2代目南光→仁左衛門の死後は桂派の凋落が決定的となる[2]。1912年に三友派を離れた「永楽館」が、同派の4代目笑福亭松鶴や5代目金原亭馬生(両者とも派の運営に不満があった)を誘って桂派に入ろうとした際、両派間の「引き抜き禁止」契約への対応から、寄席の席亭たちが桂派を形式上解散させて寿々女会の結成を試みると、他の桂派の落語家とともに強く反対し、説得(近い将来の「桂派」名の復活)を受けていったん加わったものの、名称復活が実行されないことに業を煮やして10月限りで脱退した[4][注釈 2]。寿々女会脱退後の枝雀は、こちらも分裂した旧三友派系グループの一つである三友藤原派に加わった[5][注釈 3]。しかし三友藤原派は興行的に不振で翌1913年10月限りで三友原田派に加わって消滅し、枝雀はその後すぐ新桂派を結成するがこれも長続きせず、1914年1月までに反対派に加入した[6]。この反対派加入も、橋本礼一は「一時的なものにすぎなかったらしい」とし、1914年7月には再度「新桂派」を名乗っている雑誌記事が見えることを指摘している[6]。そして同年10月から1915年8月までは京都の京桂派の高座に出演した[6]。その後約1年間は動向が不明確で、1916年9月の新聞記事に「反対派の頭取」として名が挙がっていることから、橋本礼一は同年春に反対派頭取に就任したのではないかとする[6]。1926年ごろ(大正末年)に引退した[2]。
引退後は布施(現・東大阪市)に住み、余生を過ごした[2]。同業者との連絡は一切絶っていたため、死去は桂仁左衛門の法事の際に案内されて初めて知られたという[2]。
