梨羽氏
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出自
室町時代
沼田小早川氏・小早川春平の子・時春が沼田荘内の梨子羽郷を分知され、小早川氏の庶子家として始まる|[3]。これが梨羽氏の初代当主・梨子羽時春である。上北方村畑木山城は梨羽氏の居城だった[3]。
その後、数代続くが、戦国時代になると、本家・沼田小早川家から敬平の子・康平を当主として迎えた[3]。
小早川隆景の沼田小早川家婿入りの際には、梨子羽宣平が積極的に貢献し、永禄4年(1561年)に毛利元就・隆元父子が新高山城(雄高山城)を訪問した際にも歓迎の宴を主催した。宣平は平賀興貞の次男・景行を養子に迎えている[3]。景行も子がなかったので平賀元相の次男景宗が養子に入って相続した[3]。
小早川隆景死後は毛利氏に仕え、関ヶ原の戦い後は毛利氏の周防国・長門国(長州藩)減封にともない、安芸国梨子羽の地を去った。
江戸時代
明治以降
梨羽時起は、維新前後に山口藩士を率いて各地で転戦し、明治に入ると工部省や内務省に勤務し、地形測量を担当。明治13年に海軍中尉に任官し、以降海軍軍人としてキャリアを積み、海軍中将まで累進。その間、日清日露に出征して戦功を挙げ、特に日露戦争では第一艦隊司令官、旅順口鎮守府艦隊司令官を務めて軍功があったため、明治40年9月に華族の男爵に叙せられた[1]。予備役入り後には貴族院の男爵議員にも当選した[4]。
時起は昭和3年10月24日に死去し、その長男時介(明治11年5月30日生、昭和4年2月1日承、昭和33年3月17日没)が家督と爵位を相続[1][4]。彼の代の昭和前期に梨羽男爵家の住居は東京市品川区大井金子町にあった[4]。
時介の死後は、息子才吉(明治43年1月9日生、昭和17年5月24日没)の息子である時春(昭和14年10月24日生)が当主となった[1]。その息子に徹(昭和44年9月29日生)と國男(昭和49年2月14日生)がある[1]