洪洞県
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地理
歴史
古代には楊と称され、春秋末年には晋の公族・羊舌氏出身の宰相羊舌肸(叔向)が食邑として楊を下賜された。前514年、その息子である楊食我の代に羊舌氏は晋の有力貴族集団の六卿に滅ぼされ、その采邑は楊氏、平陽、銅鞮の3県に分割され、洪洞地区には楊氏県が設置された。
前漢が成立すると楊県と改称されている。北朝の東魏の時代になると、相次ぐ戦争のために楊県には兵の駐屯地となる新たな城が築かれ「洪洞戍」と名付けられた。隋末の617年(義寧元年)、後に唐代を建てる李淵により洪洞県と改称された。
1954年に趙城県と合併して洪趙県とされたが、1958年に洪洞県に改称され現在に至る。
1303年(大徳7年)9月17日にはM8.0と推定される洪洞地震が発生、現在の山西省を中心に死者20万人から40万人の被害を出した。その後の元末明初の戦乱で国土が荒廃し全国で人口が激減したが、山西省では好調な経済活動により人口が増加していたため、明朝では洪武年間以降数十年にわたり山西省から河南省や江蘇省など中原の各省への大規模な移民が行われた。移民は洪洞県城の北にある大きなエンジュの樹(大槐樹)の下に集められた後に各地へ送られたため、中国には今も「山西洪洞大槐樹から一族の先祖が来た」というような伝承が残り、清明節には海外在住華僑を含む大勢の人々が大槐樹尋根祭祖園に集まって祖先を祀る「洪洞大槐樹尋根祭祖大典」が行われている。[3]。
鉱工業の盛んな土地であるが、労働問題も発生している。この県にあったヤミ煉瓦工場(黒磚窯)では河南省から来た民工や児童労働者などを大量に酷使し虐待を加え死傷者も発生していたが、2007年に告発によりその惨状が明るみに出てマスコミの大きな話題になり、中央政府も対処に乗り出す事態になった[4]。また2006年12月5日には左木郷紅光村の新窯炭鉱で煤塵に引火し爆発する事故が起こり105人が犠牲になった[5]。
交通
宗教
行政区画
- 鎮:大槐樹鎮、甘亭鎮、曲亭鎮、蘇堡鎮、広勝寺鎮、明姜鎮、趙城鎮、万安鎮、劉家垣鎮、辛村鎮
- 郷:淹底郷、興唐寺郷、堤村郷、竜馬郷、山目郷

