はじめ会稽王驃騎行参軍となった。後に桓修の下で長流参軍をつとめ、東莞郡太守を兼ね、寧遠将軍の号を加えられた。劉裕とたびたび征討をともにし、親密な情誼を結んだ。元興3年(404年)、劉裕が桓玄打倒の挙兵を行うにあたって、憑之は喪中の身であったため、喪服を着て劉裕のもとに赴いた。劉裕は憑之に建武将軍の号を与えた。桓玄の部将の皇甫敷が羅落橋にやってくると、憑之は劉裕とともにおのおの一隊を率いて攻めかけたが、敗戦し、憑之は皇甫敷の軍に殺害された。冀州刺史の位を追贈され、曲阿県公に追封された。
子に檀和之があった。