櫟陽
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概要
紀元前383年、秦の献公は都を雍城から櫟陽に移した。 秦の献公と孝公は34年間、櫟陽を運営し、秦の社会変革を始め、河西の土地を押さえた。 紀元前349年、秦の孝公は都を咸陽に移した[1]。 櫟陽は襄陽の玄関口となり、交通の要衝、軍事都市となった。 また、経済の中心地のひとつにもなった。 楚漢戦争で項羽は関中を3つに分割し、櫟陽は司馬欣を立てて塞王とし咸陽以東黄河にいたるまでを領土として櫟陽に都させた[2][3]。
劉邦が関中を占領した後、櫟陽を都とした[4]。 都を長安に移した後、劉邦の父である太上皇は亡くなるまで櫟陽に留まった [4]。後漢光武帝建武2年(紀元26年)、景丹を櫟陽侯に封じ、櫟陽を廃して万年県とし、櫟陽市を廃した。