武田信武
南北朝時代の武将。安芸、甲斐守護。甲斐武田氏7代。陸奥守、伊豆守、甲斐守、修理亮、左馬頭、兵庫頭、従四位下。室町幕府 引付衆、九州探題。勅撰集『新千載和歌集』『新拾遺和歌集
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生涯
父・信宗の後を受けて当主となる。安芸国守護であったが、自身が安芸に直接赴いたかどうかは不明である。
元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣[2]。そのため、鎌倉幕府滅亡後に発足した後醍醐天皇の建武政権においては討幕軍に従い戦った甲斐国守護・石和政義の後塵を拝していた。建武政権より離反した足利尊氏の軍勢催促に応じ、建武2年に挙兵し、熊谷蓮覚の本拠矢野城(広島市)を攻略している。翌年には上洛し、足利勢と合流し主に畿内を中心として宮方と戦い、また安芸国内の沈静化にも務めている。
鎌倉時代後期には、安芸守護として本拠を移した信時流武田氏に代わって甲斐守護は北条得宗家と結びついた庶流石和流武田氏が継承しており、政義は建武政権に加わり甲斐守護を安堵されたが1343年に戦死している。政義の死後には甲斐への介入を強め、貞和2年(1346年)に一蓮寺へ行った寄進をはじめ甲斐国との関係を示す史料が見られる。将軍尊氏と実弟直義の対立から発生した観応の擾乱の最中には甲斐守護への補任を示す史料が見られ、直義追討のため甲斐へ入国したと考えられている。
尊氏の信頼が篤く、尊氏が天竜寺を造営しようとした際には、同族の信濃守護小笠原氏らと造営に協力している。没年は甲府市の法泉寺の位牌によれば延文4年(1359年)であるが、一蓮寺過去帳や傑翁是英語録によれば康安2年(1362年)であるという。跡を子の信成が継承し、安芸守護職は次男の氏信が継承した。
和歌に優れた教養人でもあり、『新千載和歌集』には信武の作品が収められている。