段凝
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経歴
若くして才知にすぐれ、悟りが早く、謀が多かった。はじめ澠池県主簿となり、道士の服を脱いで朱全忠に仕えた。後梁の開平3年(909年)10月、東頭供奉官から右威衛大将軍に任じられ、左軍巡使をつとめ、水兵巡検使を兼ねた。段凝の妹が朱全忠の後宮に入って美人となったことから、段凝は朱全忠に頼りにされた。開平4年(910年)5月、懐州刺史に任じられた。乾化元年(911年)12月、朱全忠が北征からの帰途に懐州に立ち寄ると、段凝は定められた以上に貢物を献上したので、朱全忠を喜ばせた。朱全忠が再び北征すると、段凝は前と同様に朱全忠を迎えて貢物を献上した。のちに鄭州刺史に転じ、黄河で監軍をつとめた[1][2]。
貞明6年(920年)、段凝は荘宅使として同州を攻撃した[3]。龍徳2年(922年)、衛州を攻撃して攻め落とし、刺史の李存儒を捕らえた[4]。龍徳3年(923年)、段凝は北面行営招討使の王彦章の下で副使をつとめた。王彦章は徳勝口の南城を奪取したが、張漢倫らが段凝の功績に仕立てて、王彦章の功績を隠した。段凝は趙巌や張漢倫らに賄賂を贈って、招討使の任を求めた。敬翔や李振が反対したが、そのまま段凝は王彦章に代わって招討使に任命された。段凝が5万の兵を率いて高陵津に陣営を置くと、裨将の康延孝が叛いて後唐の荘宗に帰順した。康延孝が梁軍の弱点を告げると、荘宗は征服の計画を決めた[5][6]。
ほどなく荘宗が開封府に入ると、段凝は滑州から兵を率いて南に移り、先鋒の杜晏球が封丘県にいたると、武装解除して命を待たせた。翌日、段凝は軍を率いて開封府で後唐に降伏を願い出た。荘宗に降伏を許され、滑州兵馬留後となった、李姓を賜り、名を紹欽といった。ほどなく泰寧軍節度使に任じられた。契丹が幽州に進攻すると、宣徽使の李紹宏が諸軍を監督して防御にあたった。段凝は董璋とともに瓦橋関に駐屯した。段凝は李紹宏にたくみに仕え、信用させた。段凝が兵権を委譲するよう求めると、郭崇韜は段凝を信用しないよういった。段凝は節度使として官庫の物資を私用すること数万を数えた。同光3年(925年)4月、鄧州節度使に移された。同光4年(926年)2月、趙在礼が鄴都の変を起こすと、段凝は李紹宏に求められて鎮圧のための大将とされた。段凝は部将を自分の仲間で固めようとしたため、荘宗に疑われて取りやめられた。天成元年(同年)、明宗が洛陽に入ると、段凝は温韜とともに収監されたが、詔により釈放され、故郷に帰された。天成2年(927年)、遼州に流された[7][8]。天成3年(928年)9月23日、温韜とともに死を賜った[9]。