段達
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生涯
北周のとき、わずか3歳で襄垣県公を承継した[3][4]。長じてからは、身長8尺で、美しい髭をたくわえ、弓馬に熟達していた[5][6]。
楊堅が丞相となり、大都督として兵を領すると、常に段達を左右に置いた[7][8]。
楊堅が隋を開くと、段達は、左直斎となり、車騎将軍に昇任し、晋王楊広の参軍を兼任した[9][10]。
高智慧・李積らが乱を起こした際、段達は、1万の兵を率いて方州・滁州を平定したため、恩賞として、絹布千段が与えられたほか、儀同三司を授けられた[11][12]。
また、宣州において汪文進を破った際には、開府の権限を加えられ、奴婢50口と綿絹四千段が与えられた[13][14]。
仁寿年間の初めには、太子楊広の太子左衛副率となった[15][16]。
大業年間の初めには、旧臣であることを理由に、煬帝(楊広)から左翊衛将軍に任ぜられた[17][18]。
吐谷渾攻略のため西征した際には、金紫光禄大夫に進んだ[19][20]。
煬帝が高句麗攻略のため遼東に進むと、百姓は苦しみ、平原の郝孝徳や、清河の張金称らが乱を起こし、城邑を攻撃したため、郡県はこれを統制することができなかった[21]。煬帝は、段達を出陣させ、張金称らはたびたび敗退し、死傷者の数は甚大であった[22]。反乱軍は、段達を軽視しており、段達のことを「段姥」と呼称していた[23][24]。後に、鄃県県令楊善会の計略を用い、大いに勝利した[25][26]。京師に帰還すると、朝廷から退いた[27][28]。
大業9年(613年)、煬帝が再び遼東へ遠征し、段達は、涿郡の留守となった[29][30]。まもなく、段達は、再び左翊衛将軍となった[31][32]。
高陽郡の魏刀児が十余万を合して歴山飛と称し、燕・趙の地に侵入して騒擾を起こした[33][34]。段達は、涿郡通守郭絢を率いて魏刀児を撃退した[35][36]。当時、反乱軍の数は多数であり、官軍は戦うことを嫌ったため、段達は、勝機がないとして、防衛に専念したが、兵は糧食を消費するのみで、得るものがなく、当時、京師では、段達が臆病であると噂されていた[37][38]。
大業12年(616年)、煬帝は江都に南幸し、詔書を発して段達と太府寺卿元文都を東都洛陽の留守に任命した[39][40]。李密が瓦崗軍を率いて洛口を拠点とし、兵を率いて城下に侵入して騒擾を起こした際、段達は、監門郎将龐玉と虎牙郎将霍世挙とともに、兵を率いて城外に出て防衛した[41]。この戦いで、段達は功績があったため、左驍衛大将軍に昇任した[42][43]。
王世充が敗退すると、李密が北邙山に拠って再び侵攻し、上春門に到達したため、段達は、判左丞郭文懿・民部尚書韋津とともに出兵して防衛した[44][45]。段達は、瓦崗軍を見るや、戦わずして逃走したため、李密は、これに乗じ、隋軍を大敗させ、韋津が捕虜となったことから、瓦崗軍は日に日に勢力を増大させた[46][47]。
煬帝が江都において宇文化及に殺害されると、段達は、元文都らとともに越王楊侗を即位させ、段達は、開府儀同三司に任ぜられ、納言を兼ね、陳国公に封ぜられた[48][49]。元文都らが王世充を誅殺しようと画策した際、段達は、これを王世充に密告し、王世充に内応した[50][51]。この事件の後、恭帝侗は、元文都を捕えて王世充に差し出すこととなり、王世充は、段達を非常に尊重した[52][53]。
李密が敗れた後、段達らは、恭帝侗をして王世充に九錫を加えさせ、さらに禅譲を行わせた[54][55]。王世充は、鄭の皇帝を自称し、段達は、司徒となった[56][57]。