毒見
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概要
世界における毒見
古代ローマでは為政者が毒を盛られることが頻繁だったので、ローマ皇帝は、紀元前27年に即位した初代皇帝アウグストゥス以降、歴代の皇帝が毒見奴隷を抱えることとなった[1]。毒見奴隷の寿命は、おおむね短かったという。ハロタスはクラウディウスの毒見役で使用人頭であったが、西暦54年、クラウディウスが毒キノコに当たって死んだ後も、後継の皇帝の毒見役を務めたことから、暗殺に関わったとも考えられている[2]。
16世紀に教皇ピウス4世とピウス5世に仕えた料理人バルトロメオ・スカッピの著書『Opera Dell'Arte del Cucinare』に、バチカン公国で行われたコンクラーベで毒見役がいたことが示されている[3]。
13世紀のエジプトの将軍イッズッディーン・アイバクは、スルタンの奴隷として毒見役をつとめたことから出世し、ついにはスルタンにまで登りつめている。
オスマン帝国(13世紀終わり - 20世紀初頭)のハレムにおいては、まず新人の女奴隷として宮廷に入り、3年を経験したのち、洗濯係や毒見係・妃の侍女などに配属された[4]。
中国では、毒見役は試毒(中国語:试毒)、嘗毒と呼ばれ、一般的に宦官が行った[5]。清朝時代では、毒見役は尝膳太监と呼ばれた[6][7]。
アドルフ・ヒトラーの毒見を行っていたと証言するマルゴット・ウェルクの話から、『ヒトラーの毒見役』( 著:ロッセラ・ポストリノ 翻訳:松木りか子)が製本されたが、ポストリノがウェルクにインタビューをする前にウェルクが亡くなったため創作も含まれる[8]。
日本における毒見
平安時代には薬子(くすりこ)という毒見役があり、宮中で元旦の屠蘇などの毒味をしていたという[9]。また、毒見は「鬼食ひ」と呼ばれていた[10]。
江戸時代の寛文6年(1666年)、仙台藩の幼藩主伊達綱村は数え8歳の時に毒殺されかけたが、毒見役の働きによって難を逃れている。
徳川将軍家では「御膳奉行」が毒見をし、問題がなければ運ばれ、最終的に小納戸もしくは、小姓が毒見をするという二重の毒見制とされる[11]。
磯田道史の古文書研究による解読によれば、近世期の毒見役とは毒見をする係ではなく、毒見をさせる係であり、その毒見をさせられたのは調理担当者と御膳を運ぶ者とされる[12]。
近代皇室では侍医長が御試食(おしつけ)として事前に天皇に出させる食事の毒見を行なっていた。現在でも行なわれているが検食に近く、栄養管理が主目的である。
西南戦争において西郷隆盛の料理番となった平田源吉という人物は、元々は鹿児島城下の鰻屋であったが、その正直さをかわれて料理番となり、自ら毒見をした[13]。