池田元助

戦国時代から安土桃山時代の武将。池田恒興の長男 From Wikipedia, the free encyclopedia

池田 元助(いけだ もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将池田恒興の長男で輝政の兄。

寛政重脩諸家譜』では之助(ゆきすけ)となっているが、「元」と「之」の字形の類似による誤写である[注釈 4]
生誕 永禄2年(1559年[2]または7年(1564年[3]
改名 勝九郎(幼名)、池田元助
概要 凡例池田元助, 時代 ...
 
池田元助
池田之助(元助)像[注釈 1]
(岐阜県揖斐郡本郷村龍徳寺所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄2年(1559年[2]または7年(1564年[3]
死没 天正12年4月9日1584年5月18日
改名 勝九郎(幼名)、池田元助
別名 之助、通称:庄九郎、紀伊守
戒名 正宗院顕功永節禅定門[4]
墓所 龍徳寺岐阜県揖斐郡池田町本郷)
主君 織田信長信雄羽柴秀吉
氏族 池田氏
父母 父:池田恒興、母:善応院荒尾善次の娘)
兄弟 元助輝政長吉長政、安養院(森長可室、後に中村一氏室)、若政所豊臣秀次正室)、天球院(山崎家盛正室、後に離縁)、慶雲院(浅野幸長正室)、女(織田勝長正室)[5]
異父姉:七条織田信時の娘、飯尾敏成正室、後に下間頼龍正室)
正室:斎藤義龍の娘[4][6]/ 伊勢貞良(伊勢兵庫某[2])の娘[注釈 2]
継室:塩川長満の娘[2]
由之元信[注釈 3]
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後室の塩川長満の娘は、織田信忠の妻と姉妹で、三法師は外甥にあたる。

略歴

幼少より織田信長に仕えた。史料に初めて登場するのは天正6年(1578年)12月の有岡城攻めで、父・恒興と共に倉橋郷の砦に入った。

天正8年(1580年)の荒木村重討伐では父や弟の輝政と共に活躍し、花隈城の戦い荒木元清を破り、信長からその功績を賞賛されて名馬を賜った。

天正9年(1581年)2月28日、父の名代として輝政と共に馬揃えに摂州衆として参加。以後、父を離れて単独で活動するようになり、池田氏の大将として振る舞う。

同年11月、信長は羽柴秀吉と元助に淡路国侵攻を命じた。元助は岩屋城を包囲し、由良城(由良古城)に籠城する安宅清康のもとに、家臣・伊木忠次と秀吉の腹心・蜂須賀正勝を送って投降を説得し、信長の許可を得たので、淡路勢は降伏して諸城は開城した。元助は清康を従えて安土城に伺候し、所領安堵の許しを得て淡路に帰還した[14]。秀吉撤退後も池田勢が淡路に駐屯した[15]

天正10年(1582年)、明智光秀与力衆の1つとして甲州征伐に出征した。続く中国遠征でも明智与力として準備を命じられていたが、6月2日にその光秀が謀反を起こして、本能寺の変で信長が横死する。

6月11日、中国大返し姫路城に戻った秀吉と会した父・恒興は、次男輝政も秀吉の養子にするという約束をして会盟した。さらに父は剃髪して勝入と号し、これに従って元助は紀伊守の称を継承した[16]。共に秀吉に従って山崎の戦いで明智光秀を破った。

清洲会議により、父は大坂・尼崎・兵庫の12万石を与えられたので、父が大坂に移って、代わりに元助が伊丹城に入り、弟・輝政尼崎城に入った。

(左)池田元助戦死の地とされる庄九郎塚[注釈 5]
(右)龍徳寺境内の池田元助の墓[注釈 6]

織田家の内紛でも父に従い、織田信雄に属して秀吉の味方となって、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦。戦後に池田家が大阪から美濃へ移され、恒興に大垣城が与えられると、元助には岐阜城が与えられた[17]

天正12年(1584年)、秀吉と信雄が断交して小牧・長久手の戦いが始まると恒興、照政や義弟・森長可と共に秀吉方として参戦し、3月13日に犬山城を攻略した[18][19]

三河中入作戦において、義弟である三好信吉が総大将を務める中入軍の第一陣を恒興、照政と共に務めた[20]。4月9日、三河へ進行中に岩崎城を第二陣の森長可軍と共に攻撃し、これを攻略した(岩崎城の戦い[21]。その後、池田・森軍は後続する三好信吉が敗走としたこと(白山林の戦い)を把握すると白山林方面へ引き返した[21]。池田・森軍は三好軍を敗走させた徳川軍と長久手で衝突したが、元助は、恒興、長可と共に戦死し、池田・森軍は徳川軍に大敗を喫した(長久手の戦い)[22]。元助は安藤直次に討ち取られた[22]。池田家の家督は長久手の戦いを生き延びた弟の照政が相続した[23]。戦死の地と伝わる場所には「庄九郎塚」が建てられている[24]

元助の享年26とされる[2]が、『信長公記』では、天正8年(1580年)時点の記述で「元助、照政(輝政)兄弟、共に年齢15、16」とあり、兄弟の年齢差はあまり開いておらず[注釈 7]、元助の没年齢は実際には20代前半であった可能性もある[13]

人物

  • ルイス・フロイスは『日本史』中で、「非常に有能で思慮深い美濃国主の義弟にあたる若者がいた」と記録し、キリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に教会へ姿を現した際にはその全てを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来たために人々はとても驚いたとしている。この美濃国主とは(一色龍興を指す[25]。上記の通り元助は龍興の義弟に当たる。

脚注

参考文献

関連項目

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