湯浅氏
日本の氏族
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歴史
湯浅氏の出自について、後代には紀伊国造や清和源氏、桓武平氏説などがあるが、鎌倉時代の湯浅氏は藤原氏を称していた[1]。『粉河寺縁起』によれば、康和元年(1099年)頃、「湯浅之住人」藤原宗永という人物がいたという[1]。この宗永は、上山本『湯浅氏系図』に拠れば、藤原北家魚名流藤原秀郷の子孫である鎮守府将軍藤原兼光の五代の裔と伝えられるが、信憑性は必ずしも高くはない[1]。
湯浅の名字を名乗る人物で初めて史上に現れたのは、前述した藤原宗永の子と推測される湯浅宗重である[1]。宗重は、平治の乱(1160年)の際、当時熊野三山に参詣していた平清盛が、乱の急報を聞いて帰洛する際にそれを支援した[1]。その一方、1180–1190年代に鎌倉幕府が成立した後は、本貫である紀伊国在田郡湯浅荘(和歌山県有田郡湯浅町)他の領地を安堵され、御家人の身分も得た[1]。
宗重とその一族は、湯浅党と呼ばれる巨大な武士団連合を組織した[2]。鎌倉時代には有力御家人として活動めざましく、特に宗重の七男の湯浅宗光(保田宗光)とその子孫(湯浅宗親(阿氐川宗親))が地頭職をめぐる紛争で名を残している[2]。暦仁元年(1238年)10月には、湯浅一族が八条辻固(京の通りの警護役)に結番(任命)された[2]。
鎌倉時代前期には、湯浅党の中から明恵が出て(母方の祖父が湯浅宗重)、仏教の高僧として大成し、高山寺を開山して華厳宗を中興した。明恵に対しては、湯浅景基が施無畏寺を寄進するなど、一党を挙げて財政的に支援した[2]。
鎌倉時代末期、元弘の乱(1331–1333年)では、宗親の孫の湯浅宗藤(阿弖川宗藤、法名を定仏)が楠木正成との戦い下赤坂城の戦いでの功により下赤坂城城主となったが、その後に城を奪回され、正成の傘下に降った。
その後、南北朝時代(1336–1392年)に入ると、湯浅党内部で南朝と北朝に分かれて戦い、急速に衰退した[2]。この頃に大規模武士団連合としての湯浅党は解体したと考えられる[2]。