漢民族
中国大陸の民族
From Wikipedia, the free encyclopedia
漢民族(かんみんぞく、簡体字: 汉族、繁体字: 漢族)は、黄河・長江流域を起源とする東アジアの民族である[6]。中国語では漢族と言い、20世紀以前から漢人ともいう。中国大陸および台湾島以外の地域では、華人・華僑・唐人と自称することが多い。言語は中国語(中国語: 汉语/漢語、华语/華語)を使用する。
| 汉族 / 漢族 | |
|---|---|
| 総人口 | |
| 14億人 全人類の17% | |
| 居住地域 | |
| 1,349,585,838 | |
| -- | 7,182,724 |
| -- | 433,641 |
| 23,299,716 | |
| 3,684,936 | |
| 7,566,200 | |
| 7,053,240 | |
| 6,590,500 | |
| 3,376,031[リンク切れ] | |
| 1,612,173[リンク切れ] | |
| 1,300,000[リンク切れ] | |
| 1,263,570[リンク切れ] | |
| 1,146,250[リンク切れ] | |
| 1,101,314[リンク切れ] | |
| 998,000[リンク切れ] | |
| 614,694[リンク切れ] | |
| 519,561[リンク切れ] | |
| 500,000[リンク切れ] | |
| 343,855[リンク切れ] | |
| 230,515[リンク切れ] | |
| 189,470[リンク切れ] | |
| 185,765[リンク切れ] | |
| 151,649[リンク切れ] | |
| 145,000[リンク切れ] | |
| 144,928[リンク切れ] | |
| 137,790[リンク切れ] | |
| 147,570[リンク切れ] | |
| 135,000[リンク切れ] | |
| 75,000 - 100,000 | |
| 言語 | |
| 中国語 | |
| 宗教 | |
| 大乗仏教と道教が支配的。儒教と民間信仰を背景とする[1][2][3][4][5]。 | |
| 関連する民族 | |
| 回族、チワン族、ドンガン人、満州民族など | |
紀元前の華夏族に遡る[7][8][9][10][11][12]。中原王朝の辺境への人口移動や、「漢化」を通じて周辺民族を取り込みつつ現在の漢民族が形成されたと考えられる[9][13][14]。
総人口では世界最大の民族である。中華人民共和国、中華民国(台湾)、シンガポールでは第一位[15][16][17]、マレーシアでは第二位の民族となる[18]。タイ王国、インドネシアなどの東南アジア諸国においても主な外来民族となっている。
概要
定義
「漢」とは、特定の血縁集団を指すだけでなく、共通の歴史、そして文化的共同体を示す意味合いも持つ[19]。「漢」という名称は、長江上流の支流である漢水に由来し、前漢・後漢王朝(紀元前206年〜紀元220年)の長期支配によって定着・強化された[20]。秦朝滅亡後に項羽が十八諸侯を封じた際、劉邦に与えた「漢王」という称号は、その封地の都城である南鄭が位置する漢中地域に由来している。漢中地域には漢水が流れており、その名は天の川(中国語: 天漢)を意味し、当時の人が漢水の流向が天の川と同じであると考えていたためである[21][22]。
秦朝から漢朝初期までには、秦の影響力により、漢朝の人は「秦人」とも呼ばれていた[23][24]。前漢の漢匈戰爭以降、「漢人」という呼称は「秦人」に取って代わり、周辺諸国が漢王朝の国民を指す他称として使われるようになった。
「漢人」という語は、遅くとも魏晋南北朝時代初期には既に民族的な意味合いを持っていたと考えられる[25][26][27][28][29][30]。学者の許は、南北朝時代において「華夏族」が自らを「漢人」と称するようになったと考えている[31]。一方で、陳は、周辺民族が中原に進出した後、「中国」という称号を共有することを求めた結果、もともと自らを中国の人と称していた人々を漢人と呼ぶようになったと指摘している[32]。
唐朝は、漢朝以降に西域諸国が中原を長期にわたり「漢地」と称してきたという背景を受け、周辺諸国との交流の中で、自らを「漢」や「漢国」と称することが多くなり[33]、国境は「漢界」と呼び、その人民は「漢人」や「漢民」と称するようになった[34][35]。これで「漢」は民族の自称として、漢民族の間で広く受け入れられた[36][37]。
19世紀末以降、西洋における民族概念の導入により、「漢族」が「漢人」に代わって、民族の正式名称となった[38]。
関連名称
華人・華僑・中国人
漢朝以前、中国の儒学者たちは書物において中原政権の領土を指す用語として 「華夏」(簡体字: 华夏; 繁体字: 華夏)を用いていた。現代には非中華圏国家において中国系移民を意味する語として、中国籍を保持している人を「華人」、居住国の国籍を取得した人を「華僑」と呼称するようになった[39]。
一方で、「中国人」という用語は、民族的出自を問わず、中国において出生・居住するあらゆる人間を指すものであり、必ずしも漢民族を意味するものではないのに対し、狭義の「華人」と「華僑」という語は、中原あるいは漢民族の血統を暗示するものとされる[40]。
唐人
広東語などの一部の中国語方言では、中国史における一つの黄金時代と見なされる唐朝の名に由来する「唐人」という呼称が存在している。近代の広東および福建両省からの移民によって「唐人」という名称が海外に広がり、中国系移民の自称として知られるようになった。
中華民族
「中華民族」という語は、文字通りには「中華の国の民族」を意味し、現在では中華民国と中華人民共和国によって掲げられている超民族的概念で、漢民族の上位概念である。
ただし、梁啓超によって創出された当初は、特に漢民族を指して用いられてもいた。彼の論文「歴史上中国民族之観察」において、「今日の『中華民族』とは、一般に俗称されるところの漢族を指す」と記している[41][42]。この用語は1912年以降、漢民族と、中国全土の満・蒙・回・蔵などの少数民族を公式に包含する用語になった。中華人民共和国でも「漢民族+55の少数民族」の総称として使用している[43]。
歴史
先秦時代
漢民族の起源は、中国中原にあり、その祖先と文化は、黄河中・下流域に居住していた農耕民部族連合である華夏族に遡るとされる[44][45][46][47][48][49]。華夏族の形成時期については複数の見解が存在している。
- 傅斯年は、紀元前30世紀に、炎帝・黄帝の炎黄部族と、山東一帯の蚩尤系東夷部族が融合して華夏族形成されたととし、即ち「夷夏東西説」を唱えた[50]。
- 王は、黃帝部族の後裔である夏・商・周部族が約1600年にわたる歴史過程を通じて、戎・狄・夷・蠻の諸部族と融合し、周朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)に華夏族を形成したと論じ、「冕服採章曰華」という文化的特徴に由来して華夏と称されるようになったと考えている[38]。
黄帝・炎帝に関する伝世文献の記録は、春秋戦国時代にまで遡る[51][52]。考古学および放射性炭素年代測定の成果によれば、黄帝の時代とされる約五千年前は仰韶文化の終期と概ね一致している。西安半坡遺跡など仰韶文化後期の出土品は、史籍に見られる黄帝の伝説とも一定の対応関係を示すとされる[53]。
顔によれば、周を創立した武王はその一族を神農・黄帝・堯・舜といった伝説上の先王に因んで「華族」と称した。また夏朝の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原の部族連合は「華夏族」と総称されるようになったという。当時の彼らの文明は華夏文明として近隣の東夷や北狄、西戎、南蛮に賞され、模倣され、ついに中国大陸の東西南北へと拡大していった。このように数千年間に渡るプロセスにより、華夏系は他の民族系を吸収したり影響されたりしながら今日の漢民族を形成してきたと考えられている[54]。
秦漢時代

始皇帝が紀元前221年に初めて皇帝を称して7つの大国の民を一つの秦帝国に統合した。また、嶺南の百越を征服し、百越を中国化する試みを続けていった[55]。
秦による匈奴遠征の影響で、匈奴は秦の人を「秦人」とも呼んでいた[23]。秦末には天下が大乱し、最終的に霸王の項羽を破って天下を統一した劉邦がは、かつて漢王に封ぜられていたことから、「漢」という国号で建国した。漢匈戦争(紀元前133年 - 89年)を経て、前漢は戦略的優位を獲得し、西域、朝鮮半島、嶺南および雲貴高原へと影響力を伸ばしていった。これに伴い、華夏族には「漢人」という民族名が生じたが、従来の「華」「夏」「華夏」「秦人」などの呼称も引き続き用いられた[56]。
漢朝には、漢人は依然として黄河・淮河流域に比較的に集中しており、漢人の総人口の過半数を占めていた。一方、長江下流の人口は後漢以降に増加し、漢人総人口の30%以上に達したとされる[57]。漢人の南下により、東南部の百越人と漢人が混じる状況も増えた。
魏晉南北朝時代
漢人王朝として、漢末以降の三国を統一した西晋は、内紛により急速に統治力を失った。永嘉の乱(304年 - 316年)以降、匈奴・鮮卑・羯・羌・氐をはじめとする複数の北方民族が中原に南下して政権を樹立し、いわゆる五胡十六国時代に入った。江南に成立した東晋は、政権の担い手こそ北方出身の漢人貴族であったものの、統治基盤は急速に成長した南方社会に支えられ、以後の南方諸政権はいずれも漢人を主体としてきた。
前趙・後趙の数十年間は民族紛争が顕著であり、中原から長江・珠江流域には、「衣冠南渡」と呼ばれる漢人の大規模な移動が発生した。これにより、永嘉の乱を契機に西晋各州人口の八分の一以上が南下したとされる[58][59][60]。
一方、東北部では鮮卑慕容部が東晋の封号を受け、流民の安置や僑郡の設置を進めた結果、黄河中下流域の漢人の一部が遼東および遼西へ集団移住した。西北部では、漢人張氏が建てた前涼とその後継政権が漢人の西遷を促す政策を採ったことで、現在の甘粛・青海東部およびウイグル自治区南部における漢人人口が大きく増加した。
南北朝において、北朝が鮮卑を中心とする北方民族政権であったのに対し、南朝は一貫して漢人政権であったという民族的対照が見られる。ただし北朝諸政権においても、制度・文化面では漢文化の採用が進んだ。とくに北魏の孝文帝は、493年以降鮮卑人において漢姓の採用や漢語・漢服の使用を推進する大規模な漢化政策を実施し、北方民族を制度的・文化的に漢人社会へ統合した。これは後世の漢民族形成における人口的・文化的構成要素の拡大にもつながった。
南北朝には漢人と異民族が混住・混血する状況が一般化した一方、この時期に「漢」は同民族を指す族称として定着したとされる[61]。
隋唐時代

隋唐期には中国南北が再統一され、中原の支配層には漢化した鮮卑人や漢人との混合的出自をもつ者、または他の胡戎系から漢化した人々が多く含まれていた。例えば、唐の初代皇帝・李淵は、母系に鮮卑系の血統を有していたとされる[62][63][64][65][66]。両王朝は政権の安定後、「胡俗(異民族の風俗)」を排して漢代の制度を回復し、礼楽制度も南朝の漢人王朝の制度を基礎とした。
これらの政策の策定には漢人のみならず、漢化した胡人も関与しており、『貞観礼』『顕慶礼』の編纂を主導した房玄齡(清河房氏、東漢の司空・房植の後裔)や、長孫無忌(祖先は拓跋鮮卑の旁系である長孫道生)がその代表例である。このような漢化と制度整備は三世紀以上にわたって続き、漢・魏晉・五胡十六国・北朝期に漢族地域へ移住した胡人の一部は既に漢化しており、隋唐期には漢人と混住していた他の胡人にも漢化が進んだとされる[67]。
またこの時期、漢人は周辺諸国から「唐人」と呼ばれ、中国は「唐山」と称されるようになった。安史の乱以降、中国の人口重心が中原から長江以南および東南沿岸部の安定した地域へ移動したことで、従来は辺境と見なされていた地域にも漢民族の定住が進み、広東・福建は新たな漢民族移民の影響のもとで漢文化の代表的地域の一つとなった[68]。
宋

五代十国時代には、戦乱を避けた人口の南下がさらに進み、漢地の経済的重心はいっそう南方へ移動した。
北宋はこうした分裂状態を収束させた漢人の統一王朝である。中央集権的な文治体制が整えられ、農業生産の向上と貨幣流通の発展により都市経済が成長した。しかし北方では遼・金・西夏から軍事的圧力を受け続け、やがて中原の支配権を失って江南へ遷都した。南宋は、領土を失いながらも、経済・文化の両面で顕著な発展を遂げた。商業と海上貿易が繁栄し、文化面では朱子学が確立された。羅針盤や火薬の実用化が進み、造船技術も当時の世界最先端の水準に達したとされる[69]。
北方の漢人は遼・金・西夏の支配下で被支配民族の地位に置かれたが、人口では多数を占め、農耕経済を基盤とする漢文化が社会の主流であった。統治においては、契丹・西夏・女真とは異なる「漢法」と呼ばれる唐制・唐律・宋制が適用された。金では女真人以外の人々は総称して「諸色人」と呼ばれ[70]、旧遼領の漢人は「漢人」、旧北宋領の漢人は「南人」と区別された[71]。金朝では官制・法制が漢人制度に倣われ、皇帝も儒学を奨励したため、支配層の主導の下で金人と漢人は血統および文化の両面で融合が進んだ。
元

金と南宋が滅亡後、モンゴル人によって初めて中国全土を統治する征服王朝、元朝が建国された。政治制度・民族運営において漢人の伝統体制に完全には同化されず、モンゴル帝国から受け継がれた特徴をある程度保ったまま統治し続けたのが特徴的であった。モンゴル人支配者は、言語や習俗に基づき、契丹人と女真人を、漢人またはモンゴル人に分類した[72]。金の政策を継承し、漢人に関しては、旧金領内の漢人・漢化した胡人を「漢人」、南宋領内の漢人と南方の少数民族を「南人」と区分した。
他方で、1281年にはクビライは布告を発して漢地のモンゴル人に対して漢語の学習と漢服の着用を義務付け、モンゴル貴族の漢化を推進し漢人貴族との同化を推し進めた。元による漢地支配は百年に満たず、その期間に漢地へ移住したモンゴル人や色目人のうち、少数が漢化した。色目人の一部は、後の回族の祖先となったとされる[73]。
明

明の建国者である洪武帝朱元璋は、華夷思想に基づき、「驅除胡虜恢復中華[74](胡虜を駆逐し中華を恢復す)」という標語を掲げてモンゴル支配の打倒を呼びかけた。1368年(元至正28年・明洪武元年)に大都(北京)を攻略して元の中原支配を終わらせると、漢人王朝として明朝を建てた。
同年、朱元璋は漢人がモンゴルなど異民族の風俗に従ってデールなどの異民族衣装を着ることを批判し、漢人固有の衣冠制度の回復を志向した。士庶に対して「悉命復衣冠如唐制(悉く命じて衣冠を唐制の如く復せしむ)」と命じ、辮髪・椎髻・胡服・胡語・胡姓を禁止するとともに、漢唐期の制度を基準として服制を具体的に整備するよう命じた[75]。この改革は、漢人がモンゴル人支配を終結させた象徴として広く受け止められ、明の百姓から普遍的な支持と協力を得たとされる[76][77][78]。
永楽帝期には、明朝廷は貴州において早期に改土帰流を実施して、西南部に対する漢人政権の実効支配を大きく強化させた。元末明初に反乱や災害で一時減少した漢人の人口は、その後約二百年にわたって増加し、1600年(万暦28年)には約1億5千万に達したと推計されている[79]。
清前期

1644年以前から、遼東半島の国境地帯に駐屯していた漢人は、しばしば満洲人と通婚していた。満洲人は移住してきた漢人兵を受け入れて同化し、「漢軍八旗」と称して満洲支配層の一部として統合した。清後期に至ると、漢軍旗人も満洲的な生活様式や制度の影響を受け、同化が進んだ。
明末には天災、李自成の乱、清の入関、三藩の乱などが相次ぎ、中国諸民族の総人口は、崇禎元年(1628年)以降、年平均約1.9%ずつ減少し、順治末年に最底値に達したと推定されている[80]。また、四川では大西政権・清・南明の三勢力が連年にわたり戦闘を繰り返し、大規模な人口減少が生じた。これは後の康熙帝による四川への移民奨励策につながり、「湖広填四川」として知られている。
清軍は入関後、漢人に対して満洲式の辮髪を強制する「剃髪易服」政策を採った。これにより激しい反抗は各地で起こり、それを鎮圧するために揚州十日、嘉定三屠、江陰八十一日と称される虐殺事件が発生した[81][82]。剃髪易服は清末まで継続され、その結果、束髪という漢人の伝統は事実上断絶し、漢人の伝統服も大きく変化することとなり、僧侶・道士・優伶など一部を除いて服装は次第に満洲化した。
清初には、漢人の土地を占拠する圈地政策や、漢人を農奴として徴発する投充制度も実施されたが、これらは康熙帝期に廃止され、「与民休息」政策へと転換された。
清後期
清代中期以降状況が大きく変化する。領域内の平穏と安定した経済、トウモロコシやサツマイモ等の新たな農業作物によって増え続けていた人口だったが(18世紀前半には推定2億人だった人口はわずか100年後の19世紀前半にはその2倍、推定4億人を突破したとされる)、イギリスなどの政策転換による銀の流入の減少(阿片戦争参照)、18世紀後半以降の全地球単位の寒冷化(異説もある)に伴う生産力の低下、さらに、太平天国の乱などの清末の一連の反乱により支えきれなくなった。ついに、19世紀後半には人口爆発とも呼べる事態が発生、大量の漢民族の周辺地域への拡散移動が始まった。
河北・山東など華北の人口は内モンゴル・満洲へ移動し、華南の人口は東南アジア各地を中心に、一部は日本・朝鮮、さらにはアメリカ・オーストラリアなどに移住した。このうち、満洲(現在の中国東北部)は中国内地との隣接区域であり、圧倒的な漢民族の人口圧によって事実上内地化した。
中華民国大陸時期
中華人民共和国
漢民族の民系及び方言
| 北方民系 | 長江以北に広く分布し、北方官話を母語とする。 |
| 晋綏民系 | 山西省、陝西省北部、内蒙古西部等に分布し、晋語を母語とする。 |
| 呉越民系 | 江蘇省南部、上海市、浙江省、安徽省南部及び江西省北東部に分布し、呉語を母語とする。 |
| 広府民系 | 広東省、広西省、海南省、香港及びマカオに分布し、粤語を母語とする。 |
| 閩海民系 | 福建省、広東省、海南省、浙江省の一部に分布し、閩語を母語とする。 |
| 湖湘民系 | 湖南省、広西チワン族自治区の一部に分布し、湘語を母語とする。 |
| 贛鄱民系 | 江西省、湖南省東部、湖北省南東部、安徽省南西部及び福建省の北西部に分布し、贛語を母語とする。 |
| 客家民系 | 広東省東部、福建省西部、江西省南部、湖南省東南部、台湾西部及び四川省の一部に分布し、客家語を母語とする。 |
| 巴蜀民系 | 四川省、重慶市などに分布していたが、度重なる大戦乱により絶滅。以降は湖広人の末裔が移り住み、西南官話を母語とする。 |
漢民族の拡張
東アジアの華人
例外的に、地理的に中国本土と最も地理的・文化的に近接しているはずの韓国のチャイナタウンについては、20世紀半ばから後半期にかけて衰退し、ついには消滅してしまった。理由として、朴正煕時代などの強い民族主義・反共主義政策などが挙げられるが、極めて特異な例として注目される。
東南アジアの華人
東南アジアなどでは華僑・華人となり、自らの居住区として各地にチャイナタウンを作り上げている。シンガポールでは華人が最多数派である。マレーシア・インドネシアでは、かつて経済の主導権を握っており、そのため現地で多数派を占めるマレー人など在来民族との摩擦があった。
タイの華人はタイ人に同化する傾向が強く、また、タイ人の中にも中国由来の文化が取り入れられ、経済的にも政治的にも完全にタイ人と一体化している。政府の要職を占める華人も少なくない。
フィリピンでも華人はフィリピン人に同化する傾向にある。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでいる。現在でも中国語を話し、中国の習慣を残している者は60万人から100万人程度と推定される。コラソン・アキノやロドリゴ・ドゥテルテなど、大統領経験者にも華人の血が流れている。また、フィリピンは台湾(中華民国)と同じく西側陣営に属したため、フィリピン華人社会で主に用いられる文字は、中華人民共和国の簡体字ではなく、中華民国の繁体字である[83]。
ミャンマー(ビルマ)では、おもに国共内戦期以降の国民党勢力の逃避行に始まる雲南省からの華人の流入が今でも続いている一方で、前近代から移住してきた土着の華人のグループもある。彼らはミャンマー中央政府から先住少数民族と認められ、「コーカン族」と称されている。コーカン族の主な居住地はシャン州北部の雲南省との国境地帯であり、コーカン地区と称される。
遺伝子


北方漢民族と南方漢民族はいずれも、新石器時代の中原集団と祖先を共有していることが示される[85][86][87][88]。山西省の横北遺跡の人骨のDNA試料と、北方漢民族のY染色体ハプログループおよびmtDNAのSNPを比較すると、両者は極めて近似しており、北方漢民族の遺伝構造は遅くとも3000年前の周代までに形成されていたことが示唆された[89]。漢民族の各サブ集団間では、差異は存在するものの、互いの遺伝的距離は日本人や朝鮮人との距離より小さい[90]。
Y染色体のハプログループのO2-M122は、先史時代に成立した、漢民族男性で高頻度に見られるDNAマーカーである。地域によっては少なくとも36.7%、多いところでは80%を超える[91] 。また、地域差はあるが、漢民族サンプルで比較的高頻度に検出されるY-DNAハプログループとして、O-P203、C-M217、N-M231、O-M268(xM95, M176)、Q-M242などがある[92]。
Y染色体ハプログループ分布は南方・北方漢民族で強い一貫性があり、緊密なクラスターを形成していると見られる一方、mtDNAには地理的クラインが存在する。母系祖先において、南方漢民族はタイ・カダイ系およびオーストロネシア語族との混合を示し、西南漢民族はミャオ・ヤオ話者との混合を示す。西北漢民族はごく少量の西ユーラシア系祖先を有し、東北漢民族は黄河流域および古代北東アジア系祖先の比率が高い[93]。漢民族のmtDNAは、北から南へ向かうにつれて多様性が増す傾向があり、北からの男性移民が広東・福建などに到達した後、現地の女性と通婚を繰り返してきた可能性が示唆される[94][95]。漢民族の全ゲノム研究では、北から南への地理的・遺伝的な層状構造が見られ、中央部の集団が周縁部集団への過渡として機能していることが示された[96]。 最終的には、平話や蜑家など一部内部的な枝分かれを除けば、漢民族全体には整合的な遺伝構造があると認められた[97][98]。
漢民族は、他の東アジア民族と遺伝的に近縁である[99][100][101][102][103][104][105] 。最近の研究から、東アジア人(モンゴロイド)を特徴付ける遺伝子があることがわかった[106][107]。 2020年に公表された研究では、日本人集団が北方漢人と重なり合う(オーバーラップする)ことが示された[108][109][110]。
