澤家
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歴史
正二位大蔵卿伏原宣幸(ふせはら のぶゆき、1637年(寛永14年) – 1705年(宝永2年))の次男で従二位右衛門佐澤忠量(さわ ただかず、1673年(寛永14年) – 1754年(宝暦4年))を祖として宝永期に成立[2]。
公家としての家格は半家、新家、外様[3]。家祖以来従二位を先途とする[3]。明経道と儒道を家職とする[3]。九条家の家札[3]。江戸時代の家禄は30石3人扶持[3]。
幕末には為量・宣嘉父子が尊皇攘夷派の公卿として活躍した。宣嘉は権中納言姉小路公遂の三男で為量の長女と結婚して婿養子に入った後、三条実美らとともに尊王攘夷派公卿として活躍したが、文久三年の政変以降三条と共に七卿落ちした公卿の一人であり、後に平野国臣らとともに但馬国生野で挙兵した(生野の乱)[2]。
宣嘉の七卿落ち後、為量は、三男の宣種を家嫡にしていたが、慶応4年の戊辰戦争で為量は官軍の奥州鎮撫副総督として出陣して戦功を挙げた。宣種も戦功を挙げ、戦後賞典禄としてそれぞれ800石と100石を賜った[4]。宣嘉は王政復古の際に帰京した後、参議、外国事務総督、外国官知事、外務卿などを歴任[5]。宣嘉も養父や義弟と別に王政復古の勲功で賞典禄800石を賜っている[6]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が成立すると澤家も公家として華族に列した。明治3年に定められた為量の家禄は、現米で254石1斗[7][注釈 1]。
明治6年に宣嘉が死去した後、為量は、宣種を廃嫡して宣嘉の遺児である宣量を養嗣子とした[2][9]。
明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄(254石1斗)と賞典禄(実額200石)の合計454石1斗と引き換えに為量に支給された金禄公債の額は1万9885円43銭2厘(華族受給者中227位)[10]。
明治前期の為量の住居は東京府小石川区西江戸川町にあった[11]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として為量が子爵に叙せられた[14]。
明治22年8月9日に為量が死去すると宣量が子爵位と家督を相続[9]。明治24年4月23日に宣量は宣嘉の勲功により伯爵に(しょうしゃく)し、半家の中で唯一の伯爵家となった[5]。宣量は宮内省や司法省の官僚を務めた[15]。宣量夫人鱗は佐竹義遵男爵の七女[9]。
明治43年10月15日に宣量が死去した後、長男の宣武が伯爵位と家督を創造[9]。彼の代の昭和前期に澤伯爵家の住居は東京市目黒区中目黒にあった[15]。
現在は元々の旧伯爵澤家が断絶。そのため、宣嘉の次男宣元を祖とする分家の旧男爵澤家が澤家の本流として祭祀を継承している。墓所は雑司ヶ谷霊園に存在した旧伯爵澤家の墓石は2018年(平成30年)頃に改葬され、同霊園に現存する澤家、伝通院に澤宣嘉の墓石が残されている。