チャーハン
炊きあがった米飯を具材と炒めた料理
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概要
チャーハンには多様な具材・調理法があり、日本の百科事典類では、卵を用いる木犀炒飯、焼豚・カニ・シイタケ・卵などを用いる什景炒飯、ハムを用いる火腿炒飯、エビを用いる蝦仁炒飯などが挙げられている[1]。また、卵と米飯を主体とする蛋炒飯、複数の具材を用いる揚州炒飯、卵黄を米粒にまとわせる黄金炒飯、炒飯の上から餡をかける香港式の福建炒飯など、地域や調理法によってさまざまな形式がみられる。
日本ではチャーハンは中華料理の定番料理として定着している。食文化研究者の川口幸大は、料理雑誌『料理の友』およびNHK『きょうの料理』に掲載された中華料理を分析する際、チャーハンを「日本で中華料理として定着している」と判断できる「定番料理」の例として挙げている[3]。
名称・表記
中国語では「炒飯」(簡体字:炒饭)と表記し、普通話では chǎofàn と発音する。中日辞典では「炒饭」を日本語の「チャーハン」に対応する料理名としている[4]。台湾教育部の『國語辭典簡編本』は「炒飯」を「油と調味料を用いて炒めて作った米飯」と定義している[5]。
日本語の「チャーハン」は中国語の「炒飯」に由来する呼称である。『精選版 日本国語大辞典』は、日本語文献における「チャーハン」の用例として、1939年(昭和14年)6月11日の『古川ロッパ日記』にみえる「帰りに夜店のチャーハンを食った」を挙げている[1]。ただし、日本ではこれ以前から炒飯に相当する料理が料理書や雑誌などで紹介されており、この用例は料理そのものの日本への伝来時期を示すものではない。
日本では「焼き飯」(やきめし)という名称も用いられる。『精選版 日本国語大辞典』は「焼飯」の第二義を「=チャーハン(炒飯)」、『デジタル大辞泉』も「チャーハンのこと」としている[2]。一方、「焼き飯」という語そのものは古く、『精選版 日本国語大辞典』では握り飯を焼いた「焼きむすび」を意味する用例を17世紀前半まで遡って示し、チャーハンの意味での「焼メシ」の用例として坂口安吾『青鬼の褌を洗ふ女』(1947年)を挙げている[2]。
歴史
中国における成立
炒飯の起源については、古代中国の米料理や炒め物との関係をめぐって複数の説明がなされている。侯兵らは、馬王堆漢墓から出土した前漢初期の遣策にみえる「卵熇」を、卵と米飯を強火で調理した食品であり、蛋炒飯の雛形にあたるものと位置づけている[6]。ただし、この位置づけは侯兵らによる解釈であり、「卵熇」が現在の蛋炒飯と同一の料理であったことを直接示す調理法が残されているわけではない。
一方、北魏の賈思勰が著した『斉民要術』には、「炒雞子法」と題する卵料理の調理法が記されている。そこでは卵を鍋に割り入れて黄身と白身を混ぜ、葱、塩、豆豉などを加え、麻油で炒める方法が記載されている[7]。したがって、少なくとも6世紀までには、卵を油脂とともに鍋で炒める調理法が文献上確認できる。
隋代の謝諷が著した『食経』には、「越国公碎金飯」(越国公の砕金飯)という料理名があったことが知られている。『食経』そのものは散逸したが、その内容の一部は後世の陶穀『清異録』に引用されている。現存する『清異録』の「饌羞門」では、「謝諷《食經》中、畧抄五十三種」として列挙された料理の一つに「越國公碎金飯」がみえる[8]。また、後世の類書『格致鏡原』にも、『謝諷食経』の料理として「越国公碎金飯」が引用されている[9]。
ただし、『清異録』の引用は料理名を列挙するのみで、「碎金飯」の材料や調理法を説明していない。侯兵らも、『清異録』に伝わる53種の料理には具体的な製法の説明がないことを指摘しており、「碎金飯」を卵炒飯とみなす説はあるものの、謝諷の記述そのものからその調理法を確認することはできないとしている[6]。このため、「碎金飯」が現在の卵炒飯と同じ製法であったことや、煬帝がそれを好んで揚州へ伝えたとする説明は、現存する『食経』由来の記述だけからは確認できない。
「炒飯」という語について、侯兵らは、確認できる早い用例として乾隆年間の『河南府志』礼俗志を挙げている。同書では古代の「淳熬」を「炒飯」と呼び、「今炒干飯用油沃之」と説明しているという[10]。ただし侯兵らは、『礼記』にみえる淳熬そのものは、肉醤を煎って米飯の上にのせ、さらに脂を注ぐ料理であり、現代の炒飯とは調理法が異なると分析している[10]。このため、後世の文献で古代料理を「炒飯」と表現した例を、そのまま現代の炒飯の存在を示す史料とみなすことには注意を要する。
明清期以降になると、油で米飯を炒める料理を示す記録がより多くみられる。侯兵らは、明清期から民国期の地方志、日記、小説などを調査し、『南村草堂文鈔』『光緒耒陽県志』『彭公案』『湘綺楼全集』『児女英雄伝』『泰県志稿』などに「油炒飯」が記されていることを指摘している[11]。
清代末から民国初期の社会・風俗を集成した徐珂『清稗類鈔』では、一般的な飯屋の料理について「火腿蛋炒飯」「蝦仁蛋炒飯」「蛋炒飯」の3種が明記されている[12]。少なくともこの時期には、「蛋炒飯」の名称そのものと、卵にハムやエビを組み合わせた複数の炒飯が飲食店で供されていたことを文献上確認できる。
揚州炒飯の成立と定型化
現在「揚州炒飯」と呼ばれる料理の成立については複数の説がある。台湾の国家図書館学術知識服務網が『歴史月刊』第174期(2002年7月、80–83頁)の記事をもとに整理した解説でも、広州の淮揚料理店に由来するとする説、近代広東料理が江南料理を取り入れる過程で成立したとする説、乾隆帝に関する伝承、清代の官僚伊秉綬とその料理人に由来するとする説の4説が紹介されている[13]。
侯兵らが清代の揚州に関する料理・風俗文献を検討したところ、袁枚の『随園食単』や李斗の『揚州画舫録』には「炒飯」「油炒飯」あるいは「揚州炒飯」に関する記述が確認されないという[14]。侯兵らは、当時の炒飯や油炒飯が主食としての性格をもつ庶民的な料理であったため、文人による料理書や風俗記録では取り上げられにくかった可能性を指摘している[14]。
後世に広まった説の一つが伊秉綬に由来するものである。侯兵らが引用する凌雲超『中国書法三千年』では、伊家の料理人が江蘇式の葱油蛋炒飯にエビと叉焼を加えた料理を作り、それが華南で「揚州炒飯」と呼ばれたと説明されている[14]。また、国家図書館学術知識服務網が紹介する『歴史月刊』の記事では、唐魯孫が伊秉綬と麦姓の料理人による新しい蛋炒飯の考案を起源説として挙げたことが紹介されている[13]。ただし、いずれも伊秉綬の時代の同時代史料によって成立過程を直接記録したものではなく、後世にまとめられた由来説として扱う必要がある。
これとは別に、広州で「揚州炒飯」という名称が成立したとする説もある。侯兵らは、香港の作家・魯言『香江旧語』に、光緒年間の広州にあった淮揚料理店「聚春園」がエビ、叉焼、ナマコを用いた「揚州鍋巴」を提供し、「大三元」の料理人が同様の具材を飯とともに炒めたことから「揚州炒飯」と呼ばれるようになったとする地方伝承が記されていることを紹介している[14]。一方、国家図書館学術知識服務網が紹介する『歴史月刊』の記事では店名を「聚香園」とし、叉焼とエビを用いた料理に「揚州」の名が冠されたという別の説明を掲げている[13]。このように細部にも異同があり、侯兵らも魯言の記述を学術的な証拠ではなく地方掌故の記録として位置づけている[14]。
一方、清末から民国初期にかけて、具材を加えた蛋炒飯が飲食店で供されていたこと自体は『清稗類鈔』から確認できる。同書では「火腿蛋炒飯」「蝦仁蛋炒飯」「蛋炒飯」が一般的な飯屋の料理として挙げられている[12]。侯兵らはこの記述などから、清末から民国期には油炒飯が、卵やハム、エビなどを組み合わせた多様な料理へ展開していたと論じている[14]。
現代の揚州において、揚州炒飯の特徴・材料・調理法が体系的に記述されるようになるのは20世紀後半である。侯兵らによれば、1982年7月に揚州市商業技工学校の烹飪専攻教研組が編纂した『揚州菜点教材選編』に揚州炒飯が炒類の料理として採用され、その特徴、材料、調理法が明示された。その後、『中国小吃上海風味』(1983年)、『川蘇名菜500例』(1983年)、『粥麺粉食』(1984年)などにも収録された[14]。
2002年には揚州市烹飪協会が揚州炒飯の業界標準を公表した。2015年に新基準が公表された際の報道によれば、2002年の基準は業界標準であり、参考的な性格のものであった[15]。また、中国中央電視台系の記事も、2002年に揚州の関係団体が制作標準を公表していたことを確認している[16]。
「揚州炒飯制作技芸」は2009年、江蘇省政府が公布した第2回省級無形文化遺産名録に、伝統技芸「JSⅦ-69」として登録された[17]。
日本への伝来と普及
日本における炒飯の受容は、近代に中国料理そのものが都市部へ広まっていく過程の中で進んだ。近代日本における初期の代表的な中国料理店として、1883年(明治16年)に東京・日本橋で開業した「偕楽園」がある。偕楽園は中国料理を通じた日中親善を目的とする社交の場として設立され、渋沢栄一、大倉喜八郎、浅野総一郎らが出資し、中国公使が北京料理の料理人を連れてくるなど、中国各地の料理人が関わっていた[18]。チャーハンの歴史を調査した石田かおるの研究を紹介する記事によれば、明治30年代前半には偕楽園が法人向けに提供した仕出し弁当にチャーハンが含まれていたとみられる[19]。ただし、当時の中国料理店におけるチャーハンの提供状況を示す献立などの記録は限られており、一般にどの程度普及していたかは明らかではない。
日清戦争後から20世紀初頭にかけては、清から日本へ来る留学生の増加などを背景として、東京の学生街を中心に中国料理店が増加した[19]。石田の調査では、1919年(大正8年)に来日した中国人留学生の回想に、日本でチャーハンを食べたことを示す記述が確認されており、少なくとも大正期には中国料理店でチャーハンが供されていたことがわかる[19]。また、石田の調査を紹介した別の書評では、1913年(大正2年)の料理書にすでにチャーハンのレシピが掲載されていたことが指摘されている[20]。
この時期には中国料理自体も家庭向けの料理雑誌を通じて紹介されるようになった。川口幸大が家庭向け料理雑誌『料理の友』を調査したところ、同誌1冊あたりに掲載された中華料理の数は1910年代には1件未満であったが、1920年代には3.1件、1930年代には13.7件へ増加している。川口は、1923年(大正12年)の関東大震災以後、日本の中国進出とともに中国料理への関心が高まったとする先行研究とも一致する傾向であるとしている[21]。戦前の『料理の友』では、紹介される中華料理の90.9%が「支那料理」などと明示された記事に掲載されており、中国由来の料理がまだ独立した外国料理として紹介される傾向が強かった[22]。
チャーハンそのものについては、『主婦之友』1926年(大正15年)8月号の「腐敗し易い夏の残飯の利用法」に掲載例がみられる。石田の調査によれば、同記事では余った飯を乾燥させて「乾飯」とし、これに卵やネギなどを加えてチャーハンを作る方法が紹介されていた[19]。さらに、ラジオ放送が普及した昭和初期には料理番組とその関連出版物も料理情報の伝達に用いられ、1935年(昭和10年)の『放送料理一千集 野菜篇』には「松茸五色飯(松茸炒飯)」が収録されている[19]。日本語の「チャーハン」という語について、『日本国語大辞典』は1939年(昭和14年)6月11日の『古川ロッパ日記』にある「帰りに夜店のチャーハンを食った」を初出例として掲げている[1]。これは料理そのものの日本への伝来時期を示すものではないが、昭和戦前期には「チャーハン」という中国語由来の呼称が日本語の文章中で使用されていたことを示している。
戦後には、テレビや料理雑誌を通じてチャーハンが家庭料理としてさらに広く紹介されるようになった。NHKの料理番組『きょうの料理』は1957年(昭和32年)に放送を開始し、翌1958年からテキストが刊行された[23]。川口による1958年から2019年までの同誌の分析では、チャーハンの掲載回数は1960年代の4回から、1970年代11回、1980年代18回、1990年代22回へと増加し、2000年代には53回、2010年代には48回となった[24]。1970年代にはチャーハン、餃子、ワンタン、シューマイなどが頻出料理として固定化し始め、1980年代以降はチャーハンと餃子が同誌における中華料理の掲載回数で常に上位2位を占めるようになった[24]。
同時に、戦後の日本ではチャーハンのレシピそのものも多様化した。川口によれば、『きょうの料理』では定番のチャーハンを繰り返し紹介する一方で、季節の食材、地域の特産物、新しい調味料などを取り入れたレシピが多数掲載されるようになり、1980年代以降その傾向が顕著になった[24]。川口は、米を絶対的な主食とする日本の中華料理においてチャーハンが中国とは異なる独自の展開を遂げたと指摘している[25]。
日本におけるチャーハン
大衆的な中華料理として
戦後の日本では、中華料理を庶民向けに提供する大衆的な飲食店が増加し、チャーハンもこうした店舗で提供される定番料理の一つとなった。文化人類学者の川口幸大は、日本の中華料理店を調査し、その一類型として、後に「町中華」と呼ばれるようになった大衆的な店舗を挙げている。こうした店舗には戦後に始まったラーメン屋台を起源とするものもあり、とくに高度経済成長期から1980年代にかけて大幅に増加したという[26]。
日本の町中華におけるチャーハンは、中国の料理をそのまま再現したものとは限らず、日本で形成された中華料理の一部として発達した。料理人・文筆家の稲田俊輔は、戦後の日本におけるチャーハンの味の基準を形成するうえで町中華が大きな役割を果たしたとし、日本で一般的なチャーハンの多くは町中華の味を基礎としていると指摘している[27]。
町中華やラーメン店では、チャーハンを一人前の料理として供するだけでなく、ラーメンと少量のチャーハンを組み合わせた「半チャンラーメン」などの形式もみられる。東京・神保町にあった「さぶちゃん」は、その発祥店の一つとして知られている。店主が客から「ラーメンとチャーハンの両方を食べたい」と求められ、チャーハンを半量にしてラーメンと組み合わせたことが始まりと伝えられているが、発祥については異説もある[28]。同店は2017年に閉店したが、その後もラーメンと半量のチャーハンを組み合わせる形式は各地の中華料理店やラーメン店でみられる[29]。
家庭料理と加工食品
家庭でのチャーハン調理を簡便化する商品も販売されるようになった。永谷園は1987年に「具入りチャーハンの素」を発売した。当時すでに具の入っていない粉末状のチャーハン用調味料が販売されていたなか、同社は具材の多さと家庭での手軽さを重視した商品として開発した[30]。同社の沿革でも1987年の「具入りチャーハンの素」発売が記録されている[31]。
冷凍食品としてのチャーハンも普及した。ニチレイ(現・ニチレイフーズ)は2001年に家庭用冷凍食品「本格炒め炒飯」を発売した。同社によれば、それ以前の冷凍チャーハンには米飯と中華風の具材・調味料を混ぜ合わせた製品が多かったのに対し、同商品では製造工程で実際に米飯を炒める独自技術を導入し、家庭用冷凍チャーハンとして「炒めた」食感を再現することを特徴とした[32]。
調理
チャーハンの調理法は地域や料理の種類によって異なるが、一般には炊飯した米飯を油脂とともに鍋で炒め、卵、肉類、魚介類、野菜などの具材を加え、塩、醤油などで調味する[1]。
米飯
米飯の粘着性や粒の分離性は、チャーハンの食感や外観に関わる要素である[33]。炊飯した米の粘着性には、品種や米に含まれるアミロース・アミロペクチンの性質が影響する。Liらが12種類の米を比較した研究では、米全体のアミロース含量が高くなるほど炊飯米の粘着性が低くなる傾向が確認されており、粘着性には炊飯中に米粒表面へ溶出するアミロペクチンの量や分子構造も関係している[34]。同研究では、高アミロース米は一般に硬く粘着性が低く、低アミロース米はより軟らかく粘着性が高い傾向が示されている[35]。
チャーハンの調理には、炊飯直後の米ではなく、炊飯後に冷却・保存した米を使用する方法も広くみられる。梁雨婷らは2026年、炊飯米を4℃で12時間保存した場合の物理化学的変化と、それを用いて調製したチャーハンの品質を調べた[33]。その結果、保存後の米では水分含量が低下するとともに硬さと咀嚼性が増し、付着性と弾力性が低下した。また、X線回折や示差走査熱量測定ではデンプンの再結晶化、すなわちデンプンの老化が進行していることが確認された[33]。同研究では、これらの変化によって米粒の分離性や外観が改善し、保存した米飯がチャーハンの調製に適した性質を示すとしている[33]。
ただし、冷却した米飯がすべてのチャーハンに必須というわけではない。卵黄を米粒の表面にまとわせてから炒める「黄金炒飯」では、卵黄によって米粒を被覆すること自体が特徴的な調理工程となる。Longらは黄金炒飯について、卵黄による被覆によって米粒が互いに分かれた外観、黄色い色調、卵黄由来の香りが形成されると説明している[36]。
卵
卵はチャーハンの代表的な材料の一つであり、料理の種類によって使用方法も異なる。とくに黄金炒飯では卵黄を炒める前の米飯へ混ぜ、各米粒を卵黄で覆う方法が用いられる[36]。同研究では、卵黄には約50%の水分のほか、脂質約30%、タンパク質約16%が含まれることを踏まえ、加熱によって形成される卵黄の層を炒飯の表面被覆として扱っている[36]。
国語辞典では「チャーハン」と「焼き飯」は同義語として扱われており[1][2]、卵を加える順序による区別は辞書上の定義にはみられない。
炒め方と鍋振り
中国料理店などでは、チャーハンの調理に中華鍋を用い、米飯や具材を鍋の中で動かしながら短時間に炒める方法が広く用いられる。KoとHuは、台湾および中国河南省の飲食店においてプロの料理人5人が中華鍋を用いて炒め物を調理する動作を撮影し、チャーハンについても鍋振りの運動を解析した[37]。観察された調理では、鍋の予熱、材料の順次投入、へらによる混合、鍋振りなどを含む一連の工程はおおむね2分間で行われ、完成したチャーハン1人前は約300グラムであった[38]。
同研究では、料理人による鍋振りの平均周波数は2.7±0.3ヘルツであった。鍋の運動は、米飯を鍋の表面に沿って移動させる並進運動と、米飯を空中へ放り上げる回転運動を組み合わせたものであり、両者の位相差によって米飯が効率よく混合される[39]。著者らは、米飯を空中へ放り上げる動作には、材料を混合すると同時に米飯を一時的に加熱面から離して冷却する作用があるとしている[40]。
種類
炒飯には、卵や肉類、魚介類、野菜などの具材を米飯とともに炒めるもののほか、卵黄を米粒にまとわせるもの、炒飯の上から具入りの餡をかけるものなど、さまざまな形式がある。清末から民国初期の食生活を記録した徐珂の『清稗類鈔』には、当時の一般的な飯店で供される炒飯として「火腿蛋炒飯」「蝦仁蛋炒飯」「蛋炒飯」の3種類が記されており[12]、卵を基本としながらハムやエビなどを加えた複数の炒飯が存在していたことが確認できる。
蛋炒飯
蛋炒飯(たんちゃおふぁん、中国語: 蛋炒饭)は、卵と米飯を主要な材料とする炒飯である。徐珂の『清稗類鈔』では「蛋炒飯」が「火腿蛋炒飯」「蝦仁蛋炒飯」と並んで挙げられており、清末から民国初期には独立した料理名として用いられていた[12]。
揚州炒飯
揚州炒飯(中国語: 扬州炒饭)は、揚州市の名を冠する炒飯である。その歴史的起源については複数の説があるが、現代の揚州では料理としての材料や製法の標準化が行われている。2015年には揚州市質量監督局や揚州市烹飪協会などが新たな制作標準を発表した[41]。
2015年の標準では、主材料を特等インディカ米の飯と新鮮な鶏卵とし、副材料として水で戻したナマコ、調理済みの地方鶏の腿肉、中国火腿、水で戻した干し貝柱、下処理を施した湖産の蝦仁、水で戻したシイタケ、タケノコ、青エンドウの8種類を規定している[41]。完成品についても、米粒が一粒ずつ分かれて光沢があること、赤・緑・黄・白・橙の色彩を備えること、塩味とうま味が調和し、卵・米飯・具材の香りをもつことなどが基準として示された[41]。この標準について、揚州市の関係部門は一部の飲食店を「炒飯標準制作指定単位」として認証し、認証店が基準に適合しない揚州炒飯を提供した場合には、消費者が質量監督部門へ申し立てることができ、重大な場合には指定を取り消すとしていた[41]。
黄金炒飯
黄金炒飯(中国語: 黄金炒饭)は、卵黄を米粒の表面にまとわせ、米飯を黄色く仕上げる炒飯である。Longらは食品科学的な研究において、黄金炒飯の調製では卵黄による米粒表面の被覆が特徴となり、これによって米粒同士が視覚的に明瞭に分離した外観、黄金色の色調、卵黄に由来する香りが形成されると説明している[42]。この方式では、卵を炒飯の具として加えるだけでなく、卵黄液そのものを米飯表面の被覆層として利用する点に特徴がある[42]。
福建炒飯
福建炒飯(中国語: 福建炒饭)は、香港などでみられる炒飯の一種である。香港政府食物安全中心が2004年から2005年にかけて香港の飲食店から採取した食品を対象として実施した調査では、「揚州炒飯」「鴛鴦炒飯」「西炒飯」などとともに「福建炒飯」が炒飯類の一つとして収録されている[43]。福建省そのものを発祥地とする料理ではないとされ、泉州市政府の食文化解説でも、福建炒飯は現在の福建を起源とする料理ではなく、福建系移民の移動に伴って東南アジアなどで発達した料理として説明されている[44]。
一般的な香港式の福建炒飯は、卵炒飯を飯の部分とし、その上から肉類・魚介類・野菜などを加えた濃い餡をかける形式をとる。香港の報道では、キノコ、菜心、干し貝柱、鶏肉、エビなどを具材とし、餡をかけたものが一般に福建炒飯として認識されている[45]。また、澎湃新聞に掲載された食文化記事では、この形式の福建炒飯は1980年代頃に香港の酒楼や飲食店でみられるようになった広東系の料理とされている[46]。
香港におけるその他の炒飯
香港では、具材や調味法の違いによって多様な炒飯が料理名として区別されている。香港政府食物安全中心が実施した食品成分調査では、「揚州炒飯」「福建炒飯」のほか、「鴛鴦炒飯」「西炒飯」「鹹魚雞粒炒飯」「鱆魚雞粒炒飯」「菠蘿雞粒炒飯」「瑤柱蛋白炒飯」「生炒牛肉飯」「生炒雞絲飯」「鮮茄牛肉配炒飯」が炒飯類として調査対象となっている[43]。同調査は香港の飲食店から収集したメニューを参考に対象料理を選び、2004年から2005年に香港10地区の店舗から実際に料理を購入して分析したものである[43]。
このうち鴛鴦炒飯は、炒飯の上に赤色と白色の2種類のソースを組み合わせる香港の料理である。『明報月刊』はこれを「Fried Rice Topped with Cream and Tomato Sauce」と説明している[47]。香港の団結香港基金も、中式炒飯に西式の赤白2種のソースを組み合わせた料理として紹介している[48]。
中国以外の炒飯料理
米飯を油で炒める料理は、中国・日本以外にもアジアを中心として広くみられ、それぞれの地域の調味料や食材を取り入れた料理として定着している。ただし、それぞれの料理の成立事情は異なり、すべてを中国の炒飯から直接派生したものとして一括して説明することはできない。
インドネシア
インドネシアでは、炒飯はナシゴレン(インドネシア語: nasi goreng)と呼ばれ、屋台からレストランまで広く提供されている。インドネシアの研究者らによる2024年のレビューでは、ナシゴレンは同国を代表する料理の一つとして位置づけられ、少なくとも104種類が確認され、そのうち36種類について地域的な由来を追うことができるとしている[49]。ジャワ島だけでもスマラン、ジャワ、ブタウィ、スンダなど各地域に異なる種類があり、北スマトラ、バリ、ジョグジャカルタ、スラウェシなどでも地域固有のナシゴレンがみられる[50]。
基本的には米飯をフライパンまたは中華鍋で炒め、ニンニク、エシャロット、ネギ、唐辛子、香辛料、ケチャップマニスなどを用い、卵、野菜、魚介類、肉類などを加える[51]。地域によって使用される食材は異なり、北スマトラの「ナシゴレン・テリ・メダン」では干したアンチョビを用い、パダン地方のものではルンダンとその調味料を加える例がある[50]。インドネシア共和国のユネスコ常駐代表部もナシゴレンをインドネシアの「national dish」と位置づけ、濃厚な甘味のある大豆調味料ケチャップを用い、漬物などを添える料理として紹介している[52]。
ナシゴレンは植民地期にも文献に現れており、Amiruddinらは1918年に『Sinar Hindia』紙で連載された物語にナシゴレンが登場することや、1925年刊行のJ.M.J. Catenius-van der Meijdenによる東インド料理書にも収録されていることを指摘している[53]。
タイ
タイでは炒飯をカオパット(タイ語: ข้าวผัด)と呼ぶ。豚肉、鶏肉、エビ、カニなどを用いた多様な種類があり、タイ外務省とThailand Foundationが作成したタイ料理教材では、カニを用いる「カオパット・プー」(タイ語: ข้าวผัดปู、カニ炒飯)が中部タイ料理およびストリートフードの一つとして紹介されている[54]。
タイの大学における食文化教育でも、カオパットは同国の重要な一皿料理の一つとして扱われている。スラートターニー・ラーチャパット大学の食品ビジネス課程は、残った米飯を炒めて新たな料理にするものとしてカオパットを説明している。また、パイナップル炒飯(タイ語: ข้าวผัดสับปะรด)については、中国に由来する炒め技法、欧米由来のハムやソーセージ、インド系のカレー粉、タイで生産される米とパイナップルを組み合わせた料理として紹介している[55]。
タイにはアメリカン・フライドライス(タイ語: ข้าวผัดอเมริกัน)と呼ばれる独自の炒飯もある。これは米飯をケチャップなどで炒め、目玉焼き、ソーセージ、ベーコン、フライドチキンなどを添える料理で、「アメリカン」の名をもつもののタイで成立した料理とされる[56]。その成立については、ベトナム戦争期にタイへ駐留したアメリカ人向けに料理人が考案したとする説と、ドンムアン空港のレストランで余ったアメリカ式朝食の食材を利用して考案されたとする説が伝えられており、確定していない[56]。
韓国
韓国では炒飯はポックムパプ(朝鮮語: 볶음밥、bokkeumbap)と呼ばれる。韓国国立国語院によれば、「볶음밥」は調理法やその方法で作られた料理を意味する「볶음」と「밥」(飯)からなる語であり[57]、ローマ字表記は「bokkeumbap」とされる[58]。
韓国観光公社は、冷ました米飯をタマネギやニンジンなどの野菜とともに素早く炒め、卵、エビ、ニラ、豚肉などを加える料理としてポックムパプを紹介している[59]。なかでもキムチを米飯とともに炒めるキムチポックムパプ(朝鮮語: 김치볶음밥)は、韓国の飲食店で一般的な種類の一つとされている[59]。
フィリピン
フィリピンでは、ニンニクと米飯を炒めるシナンガグ(タガログ語: sinangag)が広く食べられている。フィリピン政府通信機関のPhilippine Information Agencyは、炊飯後に残った米飯を「bahaw」と呼び、これを捨てずにニンニク炒飯のシナンガグとして利用することが多いとしており、シナンガグをフィリピンの朝食の定番の一つに位置づけている[60]。
シナンガグは単独で食べるほか、肉類や魚、卵などと組み合わせて朝食に供される。たとえば、牛肉のタパ、シナンガグ、卵を組み合わせた料理は、それぞれの名称を縮めて「タプシログ」(tapsilog)と呼ばれる[61]。フィリピン政府のNational Nutrition Councilも、シナンガグを白米から作られる一般的なフィリピン料理の一つとして挙げている[62]。
ペルー
ペルーでは、中国系移民の食文化とペルーの食材・料理文化との融合によって形成された料理をチファ(スペイン語: chifa)と呼び、その代表的な料理の一つがアロス・チャウファ(スペイン語: arroz chaufa)である。ペルー文化省による歴史的料理書の文化遺産指定を報じたTVPerúによれば、19世紀末から20世紀初頭にかけての中国系移民は米食や中華鍋を用いる炒め技法を広め、アロス・チャウファなどの料理の形成につながった[63]。
「チャウファ」(chaufa)の名称は、広東語の「chau fan」(炒飯)に由来するとされる。ペルーの国営紙『El Peruano』は、アロス・チャウファをチファの基本的な料理の一つとし、余った白飯を利用して、シジャオ(醤油)、青ネギ、卵、牛肉、鶏肉、豚肉、魚、エビなどを組み合わせる料理として紹介している[64]。ペルー政府系放送局も、アロス・チャウファを中国系とペルー系の料理文化が融合した料理であり、チファの献立の基礎をなす料理の一つとしている[65]。
アロス・チャウファはペルー各地の食材とも組み合わされており、アマゾン地域では肉類の代わりにセシーナを用い、揚げたプランテンや地域の香草などを加えるものもみられる[64]。
衛生
チャーハンなどの米飯料理では、保存方法によってはセレウス菌(Bacillus cereus)による食中毒が生じることがある。セレウス菌は土壌、水、ほこりなどの自然環境や農畜水産物などに広く分布する芽胞形成菌である[66]。その芽胞は耐熱性をもち、食品安全委員会によれば90℃で60分間加熱しても生残することがある[67]。このため、米飯を炊く際の加熱だけでセレウス菌による危険を完全に除去できるとは限らない。
セレウス菌による食中毒は、症状と毒素の産生場所によって「嘔吐型」と「下痢型」に大別される。嘔吐型では、食品中でセレウス菌が増殖する際に産生した嘔吐毒セレウリドを摂取することで発症する。一方、下痢型では食品とともに摂取された菌が小腸で増殖し、そこで産生された毒素によって症状が生じる[67]。食品安全委員会によれば、嘔吐型では潜伏期間が0.5~6時間で、悪心や嘔吐を主症状とするのに対し、下痢型では8~16時間後に腹痛や水様性下痢がみられる[67]。
日本ではセレウス菌食中毒のうち嘔吐型が多く、原因食品としてチャーハンやピラフなどの焼飯類が多く報告されている。食品安全委員会は、国内で発生する嘔吐型食中毒ではチャーハン、ピラフなどの焼飯類が最も多く、次いで焼きそばやスパゲッティなどの麺類が多いとしている[67]。東京都も嘔吐型の主な原因食品として、焼飯、ピラフ、焼きそば、スパゲッティなどを挙げている[66]。
問題となるのは、炊飯した米を冷却すること自体ではなく、調理後の米飯をセレウス菌が増殖しやすい温度帯に長時間置くことである。食品安全委員会によれば、セレウス菌は10~50℃で増殖し、増殖の適温は28~35℃である。また、嘔吐毒を最も産生しやすい温度はおよそ25~30℃とされる[67]。加熱調理後の米飯でも、耐熱性の芽胞が残存した状態で室温に放置されると、芽胞が発芽して菌が増殖し、食品中で嘔吐毒が形成される可能性がある[67]。
とくに嘔吐毒のセレウリドは高い耐熱性をもつ。食品安全委員会は、セレウリドについて126℃で90分間加熱しても活性を失わないとしており[67]、いったん食品中に形成された毒素は通常の再加熱によって十分に失活するとは限らない。アメリカ食品医薬品局(FDA)も、セレウリドは熱、酸および消化酵素に対して安定しているとしている[68]。
そのため、予防では調理後の米飯中で菌を増殖させないことが重要となる。食品安全委員会は、大量の食品を作り置きせず調理後に速やかに食べること、保存する場合には速やかに8℃以下、または事業者の温蔵庫・保温庫では55℃以上で保存し、保存期間をなるべく短くすることを推奨している[67]。東京都も、大量の米飯や麺類を作り置きせず、保存する場合には小分けして速やかに8℃以下まで冷却することを予防策としている[66]。