王隠
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生涯
父の王銓は代々寒門の出であったが、年少から学問を好み、著述の志を持っていた。西晋に仕え、歴陽県令となった。私的に晋の事跡や功臣の行状を記録していたが、完成させることなく亡くなった。
王隠は、普段から自身を儒学の教えに従って律し、後ろ盾を持とうとせず、博学多聞であった。父の事業を受け継ぎ西晋の旧事をそらんじ、研究した。
建興年間に江南に逃れ、丞相軍諮祭酒涿郡の祖納と親しくなり、彼は王隠を元帝に推薦したが、東晋はいまだ草創の段階であり、史官が置かれていなかったため、取り上げられることはなかった。
大興元年(318年)、制度が整えられ、王隠は召されて郭璞と共に史官である著作郎となり、晋の史書を著すよう命じられた。また王敦の乱を平定するのに功績があったとして、平陵郷侯の爵位を賜った。時に著作郎の虞預は私的に晋書を纏めていたが、長江東南の生まれであったため、西晋の朝廷の事象を知らず、王隠のもとを何度も訪れ、彼の著書を盗み写した。この後に王隠は病にかかるが、豪族である虞預は貴人や権力者と交わりを結んでいたため、党派を組んで王隠を排斥し免職とした[1]。
王隠は貧しく、史書を書くのに用立てる資産もなかったため、『晋書』を書き続けることができなかった。そこで武昌で征西将軍の庾亮を頼ると、彼が筆と紙を提供してくれたため、『晋書』を完成させることができ、咸康6年(340年)、宮中にこれを献上した[2]。70歳余りになり家で亡くなった[1]。
著作に『晋書』九十三巻、『交広記』、『蜀記』、などいずれも裴松之が『三国志』の注釈として引用している。その他に『王隠集』十巻がある[3]。