珍
倭の五王の一人
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記録
宋書
- 『宋書』列伝
- 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の讃の死後に珍が王に立ち、宋に遣使貢献し「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称して上表文を奉り除正を求めたところ、文帝は「安東将軍 倭国王」とするよう詔したとする[6][7]。
- また、珍が倭隋ら13人に対する平西・征虜・冠軍・輔国将軍号の除正も求めたところ、文帝は詔して全て認めたとする[6][7]。
- この後、珍が死んだという記事が無いまま、突然「倭国王済」の遣使記事が現れる。済が王位についたという記事も無い。当然、続柄も書かれていない。
- 『宋書』本紀
- 文帝紀 元嘉7年(430年)正月是月条では、倭国王が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(讃または珍、またはその間の王の遣使か)。
- また文帝紀 元嘉15年(438年)己巳条では、倭国王の珍を「安東将軍」となしたとする[6]。
- さらに文帝紀 元嘉15年(438年)是歳条では、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国が遣使して方物を献上したとする。
梁書
南史
『南史』夷貊伝 倭国の条(南史倭国伝)では、『宋書』列伝の内容が記述されている。
| 年 | 高句麗 | 百済 | 倭 |
|---|---|---|---|
| 317年 | <東晋建国> | ||
| 372年 | 鎮東将軍(余句) | ||
| 386年 | 鎮東将軍(余暉) | ||
| 413年 | 征東将軍(高璉) | ||
| 416年 | 征東大将軍(高璉) | 鎮東将軍(余映) | |
| 420年 | <宋建国> | ||
| 鎮東大将軍(余映) | |||
| 421年 | (安東将軍?(倭讃)) | ||
| 438年 | 安東将軍(倭珍) | ||
| 443年 | 安東将軍(倭済) | ||
| 451年 | 安東大将軍(倭済) (安東将軍?) | ||
| 457年 | 鎮東大将軍(余慶) | ||
| 462年 | 安東将軍(倭興) | ||
| 463年 | 車騎大将軍(高璉) | ||
| 478年 | 安東大将軍(倭武) | ||
| 479年 | <南斉建国> | ||
| 鎮東大将軍(倭武) | |||
| 480年 | 驃騎大将軍(高璉) | 鎮東大将軍(牟都) | |
| 490年 | 鎮東大将軍(牟大) | ||
| 494年 | 征東大将軍(高雲) | ||
| 502年 | <梁建国> | ||
| 車騎大将軍(高雲) | 征東大将軍(牟大) | 征東将軍(倭武) (征東大将軍?) | |
考証
- 「珍」・「彌」・「禰」について
- 『宋書』の「珍」は、通説では『梁書』の「彌」と同一人物とされる。これは、「珎(珍の俗字)」と「弥(彌の俗字)」に混同が生じやすいため、『梁書』の方で誤写が生じたものと解される[10][4][8]。
- 一方、「珍」と「彌」とは別人と見て、実際には「倭の六王」とする説もある[10][4]。そのほか武の上表文に「祖禰」と見えることから、武の祖父に「禰」を想定して、これと珍を同一視する説もある[11][12]。ただし一般には、その「禰」は単に廟の意と解されて、「祖禰」は先祖の意と訳される[6][7][13]。
- 使持節 都督について
- 珍は遣使で「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」を自称しているが、自称であるため、前王の讃の時点では任官されていなかったと見られる[14]。実際に倭がこれらの国々に軍事的影響力を持ったとは疑わしく(慕韓は百済の影響下、新羅・秦韓は高句麗の影響下にあった)、高句麗が要求の必要性を感じていなかった隙を突いた様子が示唆される[14]。宋はこの自称を認めなかった。この後、珍は死なず『宋書』倭国伝の記事から消え去り、済が現れる。
- 430年記事について
- 『宋書』文帝紀の元嘉7年(430年)記事では、遣使主体は「倭国王」とのみ記され、名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例などとして主体を讃とする説が有力であるが[10][4][6]、主体を珍とする説もある[10]。この年は『古事記』では履中天皇の治世に当たり、讃(仁徳天皇)でも珍(允恭天皇)でもない第三の王となる。
- 倭隋らの任官について
- 『宋書』倭国伝では、珍の任官の際に倭隋ら13人も将軍号の任官を受けたと見える。この倭隋の詳細は明らかでないが、倭王と共通する「倭」姓であるため、ヤマト王権内では王族将軍が支持基盤であったことが示唆される[10][4]。ただし平西将軍は安東将軍と同じ第三品で、品内でも1階しか違わないことから、当時の倭では王と同程度の人物が補佐する統治構造であったとする説[15]、その様子と百舌鳥古墳群・古市古墳群の並立との対応をみる説もある[14]。なお、高句麗王・百済王・倭王の場合は「征東・鎮東・安東」など中国の視点の将軍号であるが、倭隋の場合は「平西」という倭の視点の将軍号になる点が注意される[15]。
- 朝鮮への侵攻について
- 『三国史記』では440年・444年に倭が新羅に侵攻したと見えるほか、『日本書紀』の修正紀年でも442年に倭が新羅を討ったとするため、実際に440年代初頭に倭(珍か)が軍事行動を起こしたとする説がある[14]。
- 天皇系譜への比定
- 『日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、珍を反正天皇(第18代)とする説などが挙げられている[16]。この説は、「武 = 雄略天皇」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づくが、『宋書』では珍と済を別人と考える限りは関係が不明で一意に定まらないため、定説はない[17][11]。反正天皇説では、和風諡号の「瑞」と「珍」の意通が指摘される[17]。他には仁徳天皇(第16代)とする説(前田直典)もあり『古事記』分注では済とともに允恭天皇(第19代)の年代になる。允恭天皇の場合『日本書紀』即位前紀冒頭に出てくる大草香皇子(異母弟で日向髪長媛の子)が倭隋の候補になる。
- なお、記紀の伝える天皇の和風諡号として反正天皇までは「○○ワケ」であるのに対し、允恭天皇・安康天皇・雄略天皇に「ワケ」は付かないことなどから、允恭天皇以後の王統(済以後の王統)の変質を指摘する説がある[18]。
- 墓の比定
- 倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群・古市古墳群(大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市)で営造されているため、珍の墓もそのいずれかの古墳と推測される[19]。これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一説に珍の墓は大仙陵古墳(現在の仁徳天皇陵)に比定される[11]。