田中吉信
日本の武将 (1587-1606)
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生涯
『寛政譜』等によると田中吉政の二男という[5][7]。母は国友与左衛門某の娘[5][7]。
慶長6年(1601年)、『筑後志』によれば、父・吉政は筑後守として本城を柳河城に定めると、支城である久留米3万石の筑後久留米城主に(兄の吉次が出奔して廃嫡されたため『筑後志』では長男の)主膳吉信を置き、(『筑後志』では二男の)久兵衛康政を筑後福島城(在八女市)に置いた[5]。
慶長8年(1603年)、柳川から久留米に至る道路の整備をはじめ、城下町の形成も行った[8]。
大日本史料によると期日不明ながら[9]、『慶長見聞録案紙』では、吉信(20歳)は家人を手討ちにするという嗜好があったとされ、これまでに53人を殺害していたが、ある年の1月20日、小姓を手討ちにしようとして返り討ちに遭って、逆に亡くなった[10][9]。同様の記述は『当代記』で確認できる[9]。
『筑後志』によれば、「笹の雪」という三尺八寸の愛刀をもって臣下の剣術師範を手討ちして殺すときに誤って自分の膝を傷つけ(または師範により膝を斬られ)、その傷が癒えないまま近侍の者と角力(相撲)をとったため、傷口が破裂してそこから破傷風になって19歳で死亡したという[5]。『筑後将士軍談』にもほぼ同様の内容がある[11]。
何れにしても手討ちにしたときの傷がもとで早世したことになる。龍岳山崇安寺玉樹院に葬られた。法名は陽寿院殿竜岳道雲大禅定門[1]。吉信の墓は医王山西方寺にもあり、何れかは追福の供養墓であろう[1]。
吉信が亡くなって吉政は大いに驚き、悲しみ暮れたが、老臣の薦めで嗣子を定めることになったが、三男の久兵衛康政は多病にして吃音があったので、四男を嫡子と定めて、将軍徳川秀忠より一字拝領して隼人正忠政とした。
吉信の乳母が彼を弔うため、現在の柳川市にあった宋安寺に堂を立て、乳母が亡くなった後、この堂が妙経寺となる[要出典]。
田中家の改易後、旧領は柳河藩と久留米藩とに分かれたので、北野町の西方寺に移し墓を建てたとされる。近年、浄土宗大本山善導寺(久留米市善導寺町飯田)でも墓碑が確認された[要出典]。