田実渉
日本の銀行家
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人物
神奈川県出身。堺豊吉の三男として生まれ、母方の祖父田実胤信の養子となる[2]。
東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、東京帝国大学経済学部卒[1]。
1926年三菱銀行入行。押上、日比谷、日本橋、神戸各支店長を歴任[2]。
1955年取締役に選任され[2]、常務、副頭取を経て、1964年から1970年まで頭取、その後1975年まで会長を務めた[1][3]。この間に吹原産業事件の処理にあたり[3]、1969年には第一銀行との合併を発表するも、第一銀行側から猛烈な合併反対論が出たため、合併は困難として白紙撤回した。
三菱グループの社長会「金曜会」でも代表幹事としてリーダーシップを発揮し、牧田與一郎(元三菱重工業会長)・藤野忠次郎(前三菱商事会長)とともに“三菱三羽ガラス”と呼ばれた[1]。
旧財閥系グループを率いる立場でありながら、「花の輪運動」を行った土井脩司や「大地を守る会」会長の藤本敏夫とも交流があった[4]。また第一銀行頭取を務めた長谷川重三郎を後輩として可愛がっており、第一銀行と三菱銀行の合併話を仕掛けたのもその交友が背景にあった[5]。
1973年から1980年まで国家公安委員[1]。1974年から日本棋院総裁[1]。
1982年没。80歳[3]。