田建
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生涯
襄王19年(紀元前265年)、襄王が崩御し、子の建が即位した。即位当初は母親である君王后が摂政をし、輔政していた。
斉王建5年(紀元前260年)、秦が趙の長平(現在の山西省高平市付近)を攻めた。趙は糧食が尽き、斉に穀物を求めたが斉は拒否した。周子は「趙は斉にとって防壁であり、歯にとっての唇のようなものです。唇を失えば歯は寒さに晒されます。今日、趙が滅びれば、明日、災いは斉に及ぶでしょう。義によって亡国を救い、威によって秦の軍を退ける。これをしないで穀物を惜しむようでは、国の大計を立てる者として誤りでございます」と諫言したが、斉王建は聞き入れなかった。結果、秦軍は長平の戦いで趙軍40余万を殺害し、邯鄲を包囲した[1]。
斉王建16年(紀元前249年)、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝が執政した。后勝は秦の間者から賄賂を受け取り、多くの賓客を秦に遣わした。秦はこれらにも賄賂を与え、ことごとくを内通者とした。斉王建は后勝や秦に買収された臣下たちの主張を鵜呑みにし、軍事を強化せず、秦を攻める合従にも加わらず、五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観した[1][2]。
斉王建28年(紀元前237年)、斉王建は趙と共に秦に入朝し、秦王政は咸陽で宴を開いた[1][3]。
斉王建44年(紀元前221年)、前年に燕が滅亡し五国が滅びると、斉王建と后勝は秦が侵攻することを恐れ、軍を西方の国境に配置した。秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、燕から南下し、斉の国都臨淄へ侵攻した[3]。秦軍が臨淄に入った時、民は誰一人抵抗しなかった。斉王建は降伏し、斉は滅亡した(斉攻略)[1][4]。ここに秦は天下を統一した[3]。
その後、斉王建は身柄を共(現在の河南省新郷市輝県市)に移され、松と柏の林の中に幽閉されて餓死させられた[4][5]。
始皇帝没後に秦が弱体化すると、斉王建の弟である田假が挙兵して斉王になった。また孫の田安も済北王になって斉を再興したが、内紛により田栄に殺害された。
逸話
斉王建が秦に降ろうとした時、雍門(臨淄の西門)の司馬が進み出て、「王になられた理由は、社稷(国家)のためでしょうか?それとも王個人のためでしょうか?」と言った。斉王建は「社稷のためだ」と答えると、司馬は「社稷の主たる王であるなら、なぜ社稷を捨てて秦に降ろうとするのですか?」と諌めた。これを受け、斉王建は車を引き返して戻った。
即墨大夫は斉王建が諫言を聞き入れたのを見ると、まだ望みがあると考え、すぐに謁見し、「斉の国土は数千里に及び、武装した兵は数百万を数えます。三晋(韓・魏・趙)や楚の大夫たちはみな秦に仕えることを望んでいません。これらを集めて百万の軍勢を与え、秦に奪われた旧領を回復させれば、斉の威は再び高まり、秦を滅ぼすことも可能です。天下を統治する在り方を捨て、秦に仕えるなど、大王としてあるまじきことです」と進言した。しかし、斉王建はこれは聞き入れなかった。
秦は使者として斉の客臣の陳馳[6]を遣わし、斉王建に五百里の封地を与えると約束した。この勧告を受けて斉王建は降伏し、斉は滅亡した。斉の人々は、斉王建が奸臣や客臣の言を信じて国を滅ぼしたことを怨み、こう歌った[4]。
『趙正書』に記述されている子嬰による胡亥への諫言の中で、「斉王建は代々の忠臣を殺害・追放して(奸臣の)后勝を用いた」として説得の引き合いに出されている。これは趙高を重用して蒙恬を処刑しようとする胡亥を諌める場面であり、趙王遷・燕王喜と共に国を滅ぼした愚君の例として挙げられている。