田村秢
日本の政治家・弁護士
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経歴
宇治山田中学(旧三重県立第四中学校)を1912年に卒業し、金沢の第四高等学校を経て[11][12]、1917年、東京帝国大学に入学[13]。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業[1][2][10]。
松阪市で弁護士を開業した[1][10]。後に三重県弁護士会会長を3期務め、日本弁護士会連合会理事を務めた。[14]
三重県会議員、同議長を経て[5]、1942年の第21回衆議院議員総選挙で三重2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する(いわゆる「翼賛候補」)。大政翼賛会三重県協力会議長、同中央協力会議員などを務めた[2][5][10]。
在職中は翼賛政治会[15]、大日本政治会[16]、日本進歩党[17]に所属した。戦後、公職追放となった[18][注 2]。1951年追放解除[19]。その後は弁護士を務め、三重弁護士会長となる[3]。
出生・系譜
政策・主張
人物
- 宇治山田中学、第四高等学校、東京帝国大学では母校野球部の闘将として驍名を轟かせた[12]。ポジションは投手。第四高等学校時代は全国野球大会で優勝[14]。
- 第四高等学校では安倍寛(安倍晋太郎の父、安倍晋三の祖父)、平泉澄、駒井重次と同級生[14]。
- 東京帝国大学卒業後、土佐でのお隣さんであった縁で岩崎弥太郎が創業した日本郵船の面接を受けたものの、結局は弁護士になって伊勢に戻った[14]。
- 伊勢で出会った藤田美弥と1923年(大正12年)に駆け落ちし、それ以降は松阪に移ってそこを本拠地とすることになった。親に許されぬ自由結婚であり、駆け落ちの際に美弥はお腹に田村元を宿していた。田村猛雄麿の許しを得て正式に婚姻できたのは1937年(昭和12年)であった。(当時の伊勢新聞の一面トップに「若き弁護士、地位も名誉も捨てて愛の逃避行」と報じられたとされているが、残念ながら当時の記事は戦争で焼けてしまい、残されていない。)[14]
- 住所は三重県松阪市垣鼻[4][6]、同市茶与町[7]。趣味は狩猟、読書[6]、スポーツ[7]。
- 岸信介は公職追放の間に伊勢神宮の世話人をしており、松阪の田村家によく立ち寄っていた[14]。
