睢州
かつて存在した中国の行政区画
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概要
1105年(崇寧4年)、北宋により開封府襄邑県に拱州が置かれ、保慶軍の軍額を受けた。1110年(大観4年)、拱州は廃止された。1114年(政和4年)、拱州は再び置かれた。拱州は京東西路に属し、襄邑・柘城の2県を管轄した[1]。
1151年(天徳3年)、金により拱州は睢州と改称された。睢州は南京路に属し、襄邑・考城・柘城の3県と重華鎮を管轄した[2]。
元のとき、睢州は汴梁路に属し、襄邑・考城・儀封・柘城の4県を管轄した[3]。
1368年(洪武元年)、明により汴梁路は開封府と改められた。1369年(洪武2年)、襄邑県は廃止され、睢州に編入された。1377年(洪武10年)、睢州は睢県に降格した。1380年(洪武13年)、睢県は再び睢州に昇格した。1545年(嘉靖24年)、睢州は帰徳府に転属した。睢州は考城・柘城の2県を管轄した[4]。