租界
清国内の外国人居留地
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concessionと「租界」
国際関係においてconcession(特許地・免許地)を設定することは古くはポルトガルが1498年にインド・コーリコードで、貿易に関する特許を当地の支配者ザモリンから得ており(ヴァスコ・ダ・ガマによる)、1500年の条約に基づいて1502年にはプリカットにて交易所を建設している。オックスフォード国際法百科事典によると[1]concessionとは「国家が、自国の固有の権利、または機能の行使を、外国の私人に譲渡し、他の私法主体に対して行使することを認め、結果として当該国の管轄圏内において特権的な地位を得るたぐいの、二国間協定」と記述する。concessionの概念は国際法上で明確に定義されているものではなく、concessionを与える国の国内法により定義されるものであり、仮にconcessionを与えた国家が滅亡・消滅した後もconcession関係は継続されるのが通常である[2]。concessionはconcedeの名詞であり、concedeは「譲歩する」「完全に譲る」の意味のラテン語「Con+cēdere」を語源とする。
「租界」は1842年の南京条約を基礎として、1846年頃から、条約港に設置することを許可された英仏により上海に設営されたことを端緒とする。「租」とは年貢や田賦のことである[3]。
概要

アヘン戦争後の1842年に南京条約が締結され、清国政府は広州、厦門、福州、寧波、上海の5港を開港し、それを機にイギリスが上海に租界を置き、フランスやアメリカも上海に租界を置いた[4]。
その後、アロー戦争(第二次アヘン戦争)中の1858年に締結された天津条約で、清国政府は漢口、九江、南京など10港を開港し、漢口や九江などにも租界が置かれた[4]。さらに1860年の北京条約で清国政府は天津を開港して、複数の国々が租界を設置した[4]。各国の租界は清朝末期の内乱の拡大などによって次第に拡張された[4]。
日本(大日本帝国)は日清戦争後の下関条約で清国政府が開港した蘇州と杭州に1897年(明治30年)に、沙市に1898年に、重慶に1901年に租界を置いた[4]。さらに日清通商航海条約の締結後、上海、天津、漢口、厦門に租界を開設することになった。上海については当局間の交渉が難航し、後述の共同租界となった[4]。
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、イギリス、アメリカ、フランスなど列強諸国は中立を保ったが、租界は周囲から隔絶された地域となった[5]。しかし、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発により、租借地は日本に占領された[5]。1943年(昭和18年)に日本は日本租借と占領した他国租界を汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に返還する政策をとったが、1945年(昭和20年)の終戦により、租借地にあった資産は没収された[4]。
専管租界と共同租界
租界と類似する地域
中国国内に列強諸国が設定した空間的利権には、租界のほか、租借地、鉄道附属地、公館区域などがある[4]。
- 租界
- 中国側に主権があるが、その行政権の行使が全く無いか極めて限定的な地域で、外国政府または外国人が長期間貸借している地域[4]。有名なものに上海の上海共同租界や上海フランス租界がある。なお、中国側が警察権や管理権を有する地域は自開商埠(自開租界)と呼んだ[4]。
- 租借地
- 1898年にドイツ軍が膠州湾を占拠して設置されるようになった地域で、中国側には潜在的な主権しかなく、租界よりも主権譲渡の色合いが濃い地域[4]。ドイツの膠州湾租借地やフランスの広州湾租借地など。
- →詳細は「租借地」を参照
- 鉄道附属地
- 1896年に中露間で「東清鉄道建設経営に関する条約」に基づき初めて設置された[4]。
- →詳細は「鉄道附属地」を参照
- 公館区域
- 1901年の「義和団事件処理の条約」に基づき初めて設置された[4]。
中国租界一覧
朝鮮租界一覧
清朝租界
- 仁川清租界(中国語版)(1884年 - 1895年)
- 釜山清租界(1884年 - 1914年)
- 元山清租界(1888年 - 1914年)
日本租界
- 釜山日本租界(1877年 - 1914年)
- 元山日本租界(1880年 - 1914年)
- 仁川日本租界(1883年 - 1914年)
- 馬山日本租界(1902年 - 1909年)
ロシア租界
- 馬山ロシア租界(1900年 - 1909年)