秦叔宝

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秦 叔宝(しん しゅくほう、生年不詳 - 638年)は、中国軍人。名は瓊。叔宝はであり、字をもって通称される。本貫斉州歴城県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。また後世には尉遅敬徳とともに門神として信仰された。

秦叔宝

隋末唐初の時期で一二を争う猛将であり、常に単騎で敵陣に突撃し、万軍の中、敵将を馬から刺し落とす、後世の学者から「万人敵」と評価された。

後世の創作において、次第に隋唐交代期を描く物語の主軸人物として定着していった。「馬は黄河の両岸を駆け巡り、鐧は三州六府を打ち据え、山東の半ばを震え上がらせた。母への孝行は専諸に似て、交友は孟嘗君に勝り、神拳太保秦叔宝」といった広く人口に膾炙する異名で、民間に広く伝えられている。

経歴

はじめの将軍の来護児の部将となった。のちに張須陀に従って李密滎陽で討伐した、海曲にて孫宣雅を撃ち、先登してこれを破る。前後の累功により建節尉を授かる。

張須陀が李密に敗れて戦死すると、叔宝は残兵を率いて裴仁基の部下となり、裴仁基に従って李密に投降した。李密に重用されて、帳内驃騎に任ぜられた。李密と宇文化及は黎陽の童山にて大戦を交え、流れ矢に当たり落馬して気絶した。側近らは潰走し、追手も迫る中、叔宝ただ一人が身を挺してこれを防ぎ、密は辛くも難を逃れた。叔宝はさらに兵を収めて力戦し、化及はついに退いた。

李密が敗れた後、王世充に降り、龍驤大将軍に任ぜられた。武徳2年(619年)、叔宝は、世充の狡知多きを疎んじ、その官軍への出撃に乗じ、九曲に至って程知節、呉黒闼、牛進達ら数十騎とともに西へ百余歩を馳せ、下馬して世充に拝し曰く、「殊礼を蒙りながらも、仰ぎて事えること叶わず。ここを以て辞すことを請う」と。世充は敢えて迫らず、ここに来降す。高祖は秦王府に事えしむるを命じ、太宗はかねてよりその勇を聞き、厚く礼遇を加う。長春宮の鎮守に従い、馬軍総管に拝す。

同年十一月、尉遅敬德と尋相が潙州へ帰還する際、秦王李世民は兵部尚書殷開山と総管秦叔宝らを遣わし、美良川にて邀撃し、これを大破した。斬り取った首級は二千余に及んだ。

武德三年(620年)四月、宋金刚は兵糧尽きて遂に逃遁し、太宗はこれを追って介州に至った。金剛は南北七里に布陣し、官軍を防がんとした。太宗は総管李世勣・程咬金・秦叔宝にその北を担当せしめ、翟長孫・秦武通に南を担当させた。諸軍の戦況が一時後退した隙に賊軍に乗ぜられかけたが、太宗自ら精鋭騎兵を率いて陣後を衝き、賊軍を大破した。数十里にわたって追撃し、敬德と尋相は八千の兵を率いて降伏した。太宗は直ちに敬德にこれを統率させ、自軍の営陣に編入させた。

美良川の征に従い、尉遅敬德を破る。その功、最も多し。間もなく秦王右三統軍を授かる。さらに介休にて宋金剛を破るに従う。前後の勲功を録し、黄金百斤・雑綵六千段を賜り、上柱国を授けられる。

武德四年(621年)三月、王世充討伐に従軍し、常に前鋒を務めた。太宗が竇建德虎牢関に防がんとする際、叔宝は精鋭騎兵数十騎を率いて先んじてその陣を突破した。世充平定後、翼国公に進封され、黄金百斤・絹織物七千段を賜った。

武德五年(622年)二月、劉黒闥が兵を率いて洺水を攻め還る。癸亥の日、列人に至ったところで、秦王李世民は秦叔宝に邀撃せしめ、これを破った。劉黒闥討伐に従軍した功により、絹織物千段を賜った。

武德九年(626年)六月四日、建成元吉の誅滅に従う。事態平定後、左武衛大将軍に任ぜられ、実封七百戸を賜る。

貞観12年(638年)に亡くなり徐州都督を追贈され、壮とされ、昭陵に陪葬された。太宗(李世民)はかれの人馬像を石に刻んで墓前に立てさせた、もって戦陣の功を旌す。

貞観13年(639年)、胡国公に追封された。貞観十七年(643年)、長孫無忌らとともに凌煙閣に図形を賜る。

子に秦懷道、初めは父の勲功により太子千牛備身に任官し、後に綿州司士参軍・義興県令を歴任し、歴城県公に冊封される。職を辞した後、括蒼県に移り住んだ。

人物・逸話

  • 叔宝の母が亡くなると、来護児は使いを立ててこれを弔問した。役人がいぶかしく思って「士卒が死んでも、将軍は弔問することがありませんでしたのに、今ひとり叔宝を弔問するのはなぜですか?」と尋ねた。来護児は「あいつには武才があり、志節もそなわっている。長く卑賎な身分ではおるまい」と答えた。
  • 張須陀が下邳盧明月を討ったとき、敵は十万あまり、張須陀の兵はわずか十分の一にすぎなかった。堅く守って進まず、食糧が尽きたので、撤退しようとした。張須陀は「賊はわれらが退却するのを見れば、必ずこぞって追撃をかけてくるだろう。精鋭をもってその陣営を襲えば、勝利をえられよう。誰かわたしのために行く者はいないか?」と尋ねた。諸将に答える者のない中、叔宝と羅士信だけが奮いたって行くことを望んだ。精兵千人を分かって草むらの間に伏せ、張須陀は退却に入った。盧明月は追撃をかけてきた。叔宝らは敵営を襲い、門が閉じて入れなかったので、楼を上って敵の旗を引っこ抜き、敵営内を混乱させ、門を守る兵を斬って外の友軍を導き、火を放って敵営を焼き尽くした。盧明月が引き返すと、張須陀も軍を返して攻撃し、これを大いに破った。また孫宣雅と海曲で戦い、先陣に立った。前後の功により建節尉に抜擢された。
  • 李密が黎陽の童山で宇文化及と戦ったとき、李密は流れ矢を受けて落馬した。叔宝はひとりで李密を守って奮戦したので、李密は捕縛を免れ、宇文化及も兵を撤退させた。
  • 叔宝には功が多く、高祖李淵は黄金の瓶を賜り、「卿は妻子をかえりみずに自分に帰順してきた。さらにまた功を立てたからには、朕の肉を食わせたって惜しくはない。どうして子女の玉帛を惜しもうか」とねぎらって言った。
  • 晩年に病が重くなると、「わたしは若い頃から戦馬の間にあり、二百あまりの戦を経て、重傷を負ったことも数あり、出血は数斛におよんでいる。どうして病にかからないことがあろうか?」と言った。
  • 叔宝は太宗の征伐に従うごとに、敵中に骁将・鋭卒があり、人馬を炫耀して出入りし往来する者があると、太宗は甚だこれを怒り、辄ち叔宝に命じて往きて取らしめた。叔宝は命に応じ、馬を躍らせ槍を負って進み、必ずやこれを万衆の中に刺す。人馬辟易し、太宗はここをもってますますこれを重んじ、叔宝もまたこれをもって甚だ自ら矜尚した。
  • 秦叔宝の武勇は人並み外れており、彼が用いた槍は常軌を逸した大きさであった。かつて太宗に従って王世充を洛陽に包囲した際、馬を駆って城門前に槍を突き立てて去ると、城内の数十人が力を合わせて抜こうとしたが微動だにしなかった。後に叔宝が再び馬を走らせて駆けつけ、難なく槍を引き抜いて帰還した。現在でも朝廷で大規模な儀式が行われる際には、必ずこの槍を宮殿に陈列し、彼の偉勲を称えている。[1]
  • 秦叔宝が乗っていた馬は、忽雷駁(こつらいひ)と号し、常に酒を飲ませていた。月明かりの中での試練では、三枚重ねた黒氈を軽々と飛び越えた。胡公(秦叔宝)が亡くなると、馬は嘶き続けて餌を食べず、ついには死んでしまった。[2]

評価

  • 李世民:司徒・趙国公無忌をはじめ、…故・輔国大将軍・揚州都督・褒忠壮公志元、…故・徐州都督・胡壮公秦叔宝らは、あるいは材木の棟梁に推されるがごとく、謀略は遠大にわたり、幕下を統率し、霸業を計画し、あるいは学問は経書を集大成し、徳は模範として光り輝き、直言・諫言を区別せず、忠誠の言葉が日々聞かれ、あるいは義軍に力を尽くし、王府に身を寄せ、一筋の忠節を示し、幾多の戦いで奇功をあげ、あるいは朝廷より任を受けて、遠方の地を開拓し、重なる戦雲を晴らし、皇帝の威光を遠くに宣揚した。いずれも艱難辛苦を共にし、軍旅の労苦に努め、創業の初期に大業を補佐し、隆盛なる太平の世に美しい教化を助けたのである。
  • 劉肅:叔宝はその後、李密に仕え、李密が王世充の麾下に身を寄せると、程咬金が叔宝に言った。「王世充はやたらと誓約を好むが、それはまるで老女巫のようなものだ。どうして乱世を治める主君となろうか」。その後、王世充が唐の軍に抵抗した時、二人は兵を率いて出陣したが、馬の上で王世充に一礼すると、その場で降伏した。太宗は彼らを大変重用し、二人は功績と名声を成し遂げ、平穏な死を迎えた。二人はまさに「万人敵」の勇将であった。[3]
  • 劉昫:叔宝は馬槊の使い手として名高く、賊の堡塁を攻め落とす際には常に寡兵をもって衆敵に立ち向かった。まさに勇将の名にふさわしい。(中略)太宗の天下経営は、まさにこのような虎将たちに支えられて成し遂げられたのである。胡国公(秦叔宝)や鄂国公(尉遅敬徳)ら諸将は、一身の安危を顧みず奮戦した。その功績は凌煙閣に肖像を掲げられ、天地祭祀では陪祀の栄誉に浴した。こうしてその名は史書に刻まれ、君主と朝廷への忠節に見事に報いたのである。[4]
  • 吕温:尉遅敬徳と秦叔宝らは、剛毅で無口ながらも、その気魄は三軍を圧倒し、剛力をもって大敵を打ち崩した。単騎で孤剣を提げ、王の先駆けとして奮戦する姿は、まさに後漢の光武帝に仕えた呉漢の質朴な忠義、賈復の雄壮な勇猛さにも比すべきものである。[5]
  • 『凌煙閣勲臣頌 其十九 秦胡公叔宝』: 洛汭の戦い、龍戦い未だ決せず(我が師と王世充、九曲に陣す)。 秦公機変に応じ、陣前に臨み電光のごとく疾駆す。 鋭気尽きて我に来たり、我は盈ち彼は竭く。 成敗は掌を反すが如く、存亡は忽ちに。 虎来たりて風壮んに、鰲転れて山没す。 遂に心膂と作り、爰に討伐に従う。 崩れゆく囲い 陣に突入し、火迸り 冰裂く。 翕(ひし)とすれば鷲の舞い上がる如く、縦(ほしいまま)にすれば鯨の突進す。 功成り国定まり、万古に壮骨と鳴る。[6]

後世の作品に描かれる秦叔宝

秦叔宝(繡像瓦崗寨演義傳)

民間伝説において、秦瓊の歴史的評価は大きく高められ、彼を題材とした物語は次第に積み重ねられ豊かになっていった。元雑劇では『魏徴改詔風雲会』『程咬金斧劈老君堂』『徐懋功智降秦叔宝』など秦瓊を扱った作品が存在する。特に『徐懋功智降秦叔宝』では秦叔宝の描写が比較的詳細にされており、登場前から魏征の口を借りて「単雄信と対峙でき、智謀に長け、あらゆる陣形を堅固に布き、国を治め安定させる施策に富み、敵将をことごとく撃退する」と評され、対峙する唐将の馬三保も「秦叔宝の英雄ぶりは名高く、双鐗の技は天下無双」と讃えている。また秦叔宝自身も「幼少期から戦術を学び、武芸は人並み外れ、一対の熟銅鐗に敵う者はいない」と語る場面がある。この作品では秦叔宝の武勇を強調するだけでなく、既に君主への忠誠心という人物像の構築が始まっていると言える。[7]

明朝の熊大木が著した『唐书志传通俗演义』において、秦瓊の英雄的業績を描くものとして、第三十三回「美良川 鐡鞭激しく戦い、三跳澗 馬を勒いて飛び渡る」と第五十五回「建成は計を画し元吉を邀え、叔宝は盾を擁して秦王を救う」がある。前者は秦瓊が戦場で李世民を危機一髪の際に救い出す場面を、後者は秦瓊が「鴻門の会」において単身で李世民を救出する場面を描いている。いずれの回も秦瓊が危難の中で主君を救う姿を描き、その武勇と忠誠心が極めて顕著かつ明確に示されている。[8]

一方、明代の諸聖鄰により編纂された講談調の詞話本『大唐秦王詞話』においては、秦叔宝に神格化の傾向が見られ始める。第一回「李公子晋陽に義兵を興し、唐国公関中にて隋禅を受く」では、「天蓬星秦叔宝、疆土を開き展ぶ」と描写されている。[9]本書は秦叔宝を隋末の英雄の中でも筆頭の地位に位置づけており、例えば第四回で秦叔宝を紹介する唱詞では「五虎の中でも無敵の強者」と謳われている。[10]さらに第二十六回では、徐茂公が秦王に彼を紹介する場面で次のように語る。「そなたは楚の項羽の英雄ぶり、巨毋霸の勇猛さを聞いたことがないのか。一人は烏江で自刎し、一人は昆陽で斬首された。何とて言うことがあろうか!臣が今推挙する大将は、智略は韓信を凌ぎ、勇猛は项羽に匹敵し、天下に二つとない、敵を圧倒する人物である」と。唱詞にはこうある。「まことに英雄無敵にして、才は文武を兼ね誰が並ぶべき。身を立て謹厚に忠孝を存し、己を正し清廉で義仁を重んず。戦策は孫子の法に通じ、兵韬は呂公の文を尽くして曉る。槍を揮い鐗を転ずれば神鬼を驚かし、驍雄諸国に名を知られる」と。[11][12]

明朝の袁于令が創作した『隋史遺文』において、秦叔宝のイメージは比較的固定されたパターンが形成されていた。しかし、作者は創作過程中、秦叔宝の形象を大幅に書き換え、まったく新しい秦叔宝像を塑造した。其一は、その勇猛なイメージを大幅に弱化し、代わりに運命に恵まれない草莽の英雄として描いた点である。其二は、「忠」を弱め「義」を強調するとともに、乱世において時勢を見極め主君を選ぶことの重要性を浮き彫りにした点にある[13]

明朝の羅貫中が作成した『隋唐両朝志伝』において、秦叔宝と尉遅敬徳が美良川で激闘を繰り広げる物語はほぼ定型化している。秦王李世民が柏壁関を夜襲で偵察した際、尉遅敬徳に追い詰められ危機に陥ったが、秦叔宝が駆けつける。両者は百余合にわたって戦うが勝負がつかない。[14]翌日の陣頭でも再び百余合戦うが依然として決着せず、尉遅恭は「並力法」(武器で互いを打ち合い、耐えられるかを競う)での勝負を提案する。秦叔宝が先攻となり、尉遅敬徳は二発の簡を受けて耐えきれず、血を吐く。次に尉遅敬徳が攻撃すると、秦叔宝は三発の鞭を受け、四発目には耐えきれずよろめいたが、口の中の血を飲み込み何事もなかったように装い、表面上は勝利を宣言した。しかしこの時に飲み込んだ瘀血が後に病根となって残ることとなる。[15]

清の時代に書かれた『隋唐演義』『説唐演義全伝』などの英雄伝奇小説において、秦瓊(秦叔宝)のイメージはさらに美化された。これらの小説は先行作品を継承する一方、秦瓊の物語に大幅な加筆と改編を加え、その人物像をより完璧かつ理想化している。[16]彼は孝義で知られ、母に献身的に尽くし、義侠心に富んで財を軽んじ、困窮者を救い危難を助け、広く友人と交わったことから、「小嘗尝」「賽専諸[17]と称賛された。

民間伝承

以下、雑劇から演義小説、評書や戲曲などを通じて叙述していく。

元雑劇『徐懋功智降秦叔宝』では主要人物として登場する。李密が敗北した後、配下の大半は唐に降ったが、秦叔宝と程咬金らは王世充に身を寄せた。李世民が軍を起こして王世充を討つと、王世充は蘇威を総帥に、陸徳明を軍師に任じ、秦叔宝は先鋒として出陣した。蘇威が秦叔宝を疑ったため、程咬金と陸徳明はこれに不満を抱き唐への降伏を決意する。秦叔宝が唐軍の先鋒・李元吉を破った際、徐懋功は李世民に献策し、直筆の書簡を携えて程咬金と陸徳明と会見し帰順を説得させた。勝利したものの信任を得られない秦叔宝に、陸徳明は祝勝の宴を設けながら機会を捉えて帰順を勧め、秦叔宝はついにこれに同意した。翌日、秦叔宝らが唐に降ると、李世民は王世充を大破して勝利を収めた。[18]

元代の講談小説『薛仁貴征遼事略』では、秦叔宝が病で床に臥せっていたところ、太宗と尉遅敬德、李勣が見舞いに訪れた。秦叔宝が美良川での尉遅敬德との一騎打ちを回想し、自分が勝つことの多かったことを話したため、敬德は激怒して単鞭を手に取り、再び叔宝と勝負しようとした。この出来事がきっかけで、叔宝の息子である秦懐玉が登場することとなる。[19]

明代の熊大木によって著された『唐书志传通俗演义』は、現存する最古の刊行された隋唐系統の歴史演義であり、同種の題材における変遷において承前啓后的な役割を果たしている。この作品中では、秦叔宝と尉遅敬德が美良川で戦う物語が既に確立されている。[20]李世民が軍を率いて美良川で劉武周と交戦する中、尉遅敬德は程知節を打ち破った、李世民は「尉遅敬德の英雄ぶりは比類ないと聞いていたが、果たしてその通りだ!」と賞賛した、これに激怒した秦叔宝は尉遅敬德と百余り合にも渡って戦い、勝負はつかなかった。[21]その後、李世民が柏壁関を夜襲で偵察した際、再び尉遅敬德に追撃されるが、秦叔宝が駆けつけて主君を守り、今度は二百余り合に及ぶ戦いを繰り広げたが、またも勝敗は決しなかった。[22]

明の時代の羅貫中によって書かれた『隋唐両朝志伝通俗演義』は、物語の主な焦点を瓦崗寨の英雄たちに置き、秦叔宝の物語を豊かに描いている。[23]例えば第三十五回「秦叔宝洛陽大戦」では、秦叔宝が敵将の周武とその二人の息子を軽々と打ち破る。その後も王世充軍と交戦し、鐧を挺って八将を撃退するが、計略にはまり伏兵に包囲されてしまう。秦叔宝は千百余りの兵を率いて辰の刻から酉の刻まで戦い続け、援軍が到着するまで持ちこたえた。尉遅敬徳との美良川での戦いの物語も依然として残されている。[24]

明代の袁于令によって創作された長編小説『隋史遺文』において、秦叔宝は非常に重要な人物であり、民間に伝わる馬売りの逸話もこの書に由来する。全編は歴史的事件を縦軸とし、秦瓊の活動を横軸として織り成されている。縦軸は四十年にわたる歴史を連綿と繋ぎ、その中の人物と事件のほとんどは史実に符合している。横軸は秦瓊を中心に展開し、秦瓊の生涯を通して数多くの英雄たちを結びつけており、物語の大半は創作である。全体の構成は首尾一貫し、物語の展開は緊密に連鎖しているため、一般的な歴史演義小説に見られる筋立ての煩雑さ、人物の散漫さ、プロットの冗長さといった欠点が巧みに回避されている。秦叔宝はこの小説が賛美する主要人物である。小説は彼が若き日に不遇だった時代の様々な苦難を詳細に描いている:登州に出張した際、貧窮して鐧を質入れ、馬を売らなければならず、宿屋の者に冷たく扱われ、単雄信に助けられなければ道中で病没するところだった。彼は正義を貫くことを恐れず、一群の江湖の好漢たちと共に、悪事を働く宇文公子を打ち殺し、長安城で大暴れした。また「朋友のために両脇に刀を差す」という義侠心に富み、程咬金が王杠を奪ったことが官府に発覚した後、友人を救うため「捕縛命令を焔で焼き捨てる」ことをいとわなかった。[25]

明の時代に諸聖隣によって編纂された長編小説『大唐秦王詞話』において、秦叔宝は徳と才を兼ね備えた理想化された英雄として描かれ、神格化の傾向も与えられている。第一回で早くも秦叔宝が天蓬星の生まれ変わりであることが示されている。第七回では、秦叔宝は徐茂公(李勣)や魏征と共に、囚われていた李世民を密かに逃がし、後に唐に帰順する伏線を張った。[26]第二十七回では、尉遅敬德が連戦連勝を重ねて唐軍に大きな損害を与えたため、徐茂公が秦叔宝を説得に向かい、尉遅敬德の肖像画と挑発作戦を使って彼の決意を固めさせた。[27]第二十九回から第三十回にかけては、尉遅敬德と共に有名な「美良川の戦い」を繰り広げ、三度にわたって虹澗を跳び越える際、秦叔宝は性急さのあまり口から鮮血を吐く。原文では「秦叔宝は上界の天蓬星、尉遅恭は上界の黒殺神の生まれ変わりであり、天蓬が黒殺を圧倒するのを防ぐため、天は秦叔宝に三分の病を与え、戦場では常に三分の病を帯びさせるようにした」という神話的な色彩を帯びた描写がなされている。[28][29]その後、秦叔宝は転戦各地で敵将の王洪黨や高開道を捕らえ[30][31]、玄武門の変では李世民を助けて李建成を射殺し、大きな功績を立てた。[32]

『隋唐演義』と『説唐』における秦叔宝

秦叔宝(說唐演義全傳)

民間で広く知られる秦叔宝のイメージは、主に清代に書かれたこの二つの作品に由来しており、秦叔宝は隋唐物語の核心的な主要人物となっている。特に『説唐』において、秦叔宝は物語の中心人物である。以下、この二つの作品に基づいて、秦叔宝の物語中の経験を描写する。

物語中、秦瓊(叔宝)は北齐の宰相・秦旭の孫、名将・秦彝の子であり、山東省済南府歴城県に住んでいる。『説唐』では、『大唐秦王詞話』の設定を引き継ぎ、秦瓊が天蓬星の生まれ変わりであるとされている。[33]秦彝は馬鳴関で死守し、最終的に戦場で討死し、秦瓊と母は民間に流れ、程咬金(てい こうきん)の母の家に寄宿する。秦瓊と程咬金は幼なじみの親友となる。[34]

秦瓊が成長すると、身長は八尺(または一丈)、体躯は大きく、眼光は鋭く、口元は大きく、勇気と義侠心に富み、また母の教えを守り、呉国の専諸のような人柄であったため、「賽専諸(専諸に勝る者)」と呼ばれる。気性は豪放で、困窮する者を助け、危難を救い、好漢たちと広く交わった。このため、「小孟嘗」とも称された。優れた武芸を身につけ、万夫不当の勇を持ち、山東省歴城県で捕快の班頭(班長)を務め、隋唐時代の第十六条好漢に数えられた。[35]

李淵は楊広に恨まれており、太原へ赴任する道中、山賊に扮した刺客に襲われるが、たまたま通りかかった叔宝に救われる。[36]

秦瓊は用事で潞州へ行くことになり、流刑囚を護送して潞州天堂県で書類を提出するが、県令が返送文書を発行しなかったため、旅籠に足止めされ、病に倒れた。所持金も尽き、店主に宿泊費を催促された秦瓊は、やむなく愛馬の黄驃馬を連れて西門外の二賢荘へ売りに行く。そこで二賢荘の庄主・単雄信と知り合い、手厚くもてなされ、八ヶ月間療養した。別れ際、単雄信は黄驃馬に金の鐙と銀の鞍を装備させ、さらに潞州の絹織物や多額の金品を贈り、二人は深い友情で結ばれた。[37]

歴城県に戻った後、ある時、兄弟のため危険を冒し、他人の罪を被った。県令の蔡有德は秦瓊を北平城へ流刑とする判決を下す。北平王の羅芸は秦瓊の叔父(母方の姑の夫)だった。ある日、秦夫人(羅芸の妻)が羅芸に、夢で兄の秦彝の子(幼名は太平郎)が北平にいるのを見たと告げる。秦勝珠(秦夫人)の頼みもあり、羅芸は秦瓊を取り調べ、身元を尋ねた。秦瓊が実情を話すと、秦夫人が泣きながら現れ、秦瓊と再会を果たす。秦瓊は羅芸の配下で職を得て、羅芸の子である羅成と互いに槍法と鐧法を伝え合った。[38][39]

北平府を去った後、秦瓊は転々とし、父の仇である靠山王の楊林にも目をかけられ、楊林配下の十三太保の一人となる。その後、秦瓊が江湖を渡り歩く中で知り合った友人たちや、北平府の羅成、張公瑾らが一堂に会し、歴城県に集まって秦瓊の母の誕生日を祝う。しかし、程咬金が皇帝の貢物を奪った事件が発覚し、楊林に捕らえられてしまう。秦瓊らは程咬金を救出した後、隋に反旗を翻すことを決意し、賈柳楼で義兄弟の契りを結んだ。[40]

徐茂功の進言により、秦瓊、単雄信らは瓦崗寨を襲撃し、これを根拠地として、正式に決起する。程咬金は混世魔王・大徳天子を称し、秦瓊は兵馬大元帥、徐茂功は護国軍師となる。[41]

その後、瓦崗寨では新たな君主となった李密が玉璽を蕭妃と交換するなどしたため、将兵たちが離反し、秦瓊や程咬金らは瓦崗を離れて洛陽へ向かう。王世充の奸詐な性格を見て取った彼らは、策を講じて洛陽を離れ、李世民の麾下に奔った。李世民に従って東征西討し、天下統一に貢献し、李淵から護国公に封じられた。後に玄武門の変に参加し、李世民が帝位に就くのを助けた。

唐の太宗李世民が御自ら北番親征を行った際、北番が唐軍に挑戦してくると、秦瓊は三軍の将を率いて掃討に向かう。初期の唐軍は順調だったが、後に伏兵に遭い、木陽城に包囲される。羅成の子、羅通が二路元帥の印綬を奪い取って救援に駆けつけ、衆将の協力によって北番軍を打ち破った。[42]

東遼で反乱が起こった際、秦瓊は尉遅恭と元帥の印を争い、宮殿で石獅子を持ち上げる力比べを行うが、力尽きて重傷を負い、数ヶ月後に病没した。[43]

小説『薛仁貴征東』において、秦叔宝の死後、その息子である秦懐玉が喪服を着て出征し、軍を率いて三江越虎城へ援軍に向かった。蓋蘇文との戦いの中で、喪中に用いる棒(喪門棒)から立ち上る黒い気によって蓋蘇文の飛刀を破った。その後、徐茂公(李勣)が説明するところによれば、これは秦叔宝の忠誠心と国への報いる思いが強く、魂がこの世に未練を残して喪門棒に宿り、蓋蘇文の飛刀を破ったのだという。[44]

また、秦叔宝の物語としては、『馬を売るエピソード』『尉遅敬德との美良川での戦い』『玄武門の変で李世民を助けたエピソード』などが引き継がれた他、以下のように多くの物語が追加され、彩りが加えられている。

· 第八回: 秦瓊が演武場で、精妙な鐧法に加えて、一矢で二羽の鳥を射落とすという高い箭術の腕前も披露した。[45]

· 第三十八回: 秦瓊が虎牢関の総兵である四宝大将・尚師徒から四つの宝物を受け継ぎ、尚家の母子を金墉城の自宅に保護し、落ち着かせた。[46]

· 第三十九回: 叔宝が楊義臣の「銅旗陣」を破り、太さ一丈、高さ十丈あり、大きな方形の斗(ます)が備わり、その中に24人の名射手が潜む銅旗を三打で打ち倒した。[47]

· 第五十六回: 叔宝が、通訳の王九龍に騙された鰲魚太子を奇襲して討ち取った。[48]

· 第六十五回: 叔宝が、尉遅敬德を名乗る黒い顔の将軍・雷賽秦を捕らえた。[49]

戏曲の中の秦叔宝

秦叔宝(清末 京劇一百人物像 冊 絹本)

秦瓊の物語は民間で広く伝わり、それに基づく多くの戯曲作品が生まれています。以下に例を挙げて概説します。

京劇『秦瓊売馬』(別名『天堂県』『鐧売馬』): 秦瓊が護送任務で潞州天堂県に至り公文を提出するが、知県が返書を発行しないため、宿屋に足止めされる。店主が宿泊費を請求し、秦瓊はやむなく愛馬の黄驃馬を売ろうとするが、丁度単雄信が用事で馬を借りて立ち去る。次に鐧を売ろうとした秦瓊は、王伯当と謝映登に援助され、返書の取得も手伝ってもらう。[50]

秦瓊観陣

京劇『秦瓊観陣』: 秦瓊が楊林を計略で誘い出し、賈家楼で三十六友と義兄弟の契りを結んで山東で決起し、瓦崗寨に集結する。後日、楊林は秦瓊の計略に気付き、秦瓊を斬ろうとするが、秦瓊の発言に激昂した楊林は悪陣を敷き、火砲や浮き橋などを潜ませ、瓦崗の義軍をおびき寄せて一網打尽にしようとする。秦瓊は王周の助けで陣を事前に観察し、暗記する。瓦崗の義軍が到着すると、秦瓊は先導して陣を破り、楊林を大敗させる。[51]

京劇『銅旗倒す』: 楊林が汜水関に銅旗陣を敷き、守将の東方旺に銅旗を守らせて西魏軍を防がせる。魏王は秦瓊を総帥に任命して銅旗を倒させ、程咬金や王伯当らを援護に付ける。一方、羅成は父命で汜水関へ向かい、東方旺を助けて銅旗を守ることになる。到着後、羅成は銅旗を倒そうとする者が従兄の秦瓊と知り、密かに援助を繰り返す。まず東方旺に命じて闇討ちを禁じさせ、次に秦瓊の銅旗破壊を阻止しないよう仕向ける。銅旗が倒された後、東方旺が秦瓊を追い詰めた際、疲弊した秦瓊を救うために羅成は自ら進み出て東方旺を討ち取り、秦瓊の成功を助ける。秦瓊は程咬金らに羅成を紹介し、共に関中へ進攻する。[52]

豫劇『鐙で石雷を打つ』(別名『望児楼』『鐙を摘んで主君を救う』『秦瓊主君を救う』): 李密が李世民を金墉城の牢獄に幽閉する中、李世民の母・竇太真は息子を思い病に伏せ、毎夜望児楼で祈る。程咬金、魏徴、秦瓊、徐茂功らは李密に仕えていたが、李世民に帝王の風格を見出した魏徴は詔書を改竄して彼を逃がす。李密は程咬金に追跡を命じるが、李世民は千秋山で王君可に救われる。程咬金は追い着くも王君可に敵わず、帰路で秦瓊と遭遇する。程咬金は秦瓊が李世民護衛に来たと知らず、秦瓊から双鐧を騙し取る。そこへ李密が孟海公の部将・石雷を追手に差し向ける。王君可が苦戦する中、武器を失った秦瓊は馬鐙を外して石雷を打ち倒す。[53]

豫劇『双鐧対決』(別名『秦瓊擂台に立つ』): 李淵が即位後、臨潼山で秦瓊に救われた恩に報いようとするが、彼を見出せず病に伏せる。褚伯杰は李淵の心情につけ込み、曹英を秦瓊と偽らせて謁見させる。李淵が国公位を与えようとした際、馬三保らが偽りを見破り、百日間の擂台開設を奏上する。多くの豪傑が倒される中、瓦崗寨の仲間が擂台に挑むが程咬金らも敗れる。秦瓊が登場して双鐧で対決し、曹英を打ち倒す。馬三保らは秦瓊を護衛して宮殿へ向かい、褚伯杰と対決する。[54]

豫劇『秦瓊黄旗を振る』: 羅章が李月英や紅月娥らを西涼へ連れ帰り、海羅天と交戦する中、海羅天の飛刀陣に秦英や羅章らが包囲される。秦瓊の亡霊が現れ、黄旗を振って飛刀陣を破り、秦英らを救い出す。[55]

大鑼戯『武信馬を盗む』: 隋末の動乱期、秦瓊に容貌が似た豪士・武信は、秦瓊が瓦崗寨で病床にあると聞き、秦瓊の金鐧と黄驃馬を盗んで太原へ向かい、唐国公・李淵に仕えようとする。秦瓊は病を押して追跡し、妻の賈氏や瓦崗寨の仲間も後を追う。丁度その時、李淵は千歳・楊林の命で双鳳山へ派遣され、義軍首領・尹凱山と交戦していた。武信は李淵の信頼を得るため秦瓊を名乗り、軍務に就く。秦瓊が太原に到着すると、守将は彼を賊と誤認して拘束するが、瓦崗寨の仲間が到着して真相が明らかに。一同は双鳳山へ赴き、楊林は瓦崗寨の軍勢が李世民と合流したことで、李淵の隋への忠誠に疑念を抱く。[56]

秦叔宝の武器と装備

秦叔宝は演義小説において、二本の鐧を武器として使うことが多いですが、隋唐物語は非常に多岐にわたり、叔宝は他にも様々な武器を使用している。以下、簡単にご紹介する。

『大唐秦王詞話』第三十回で詳細に描写されている秦叔宝の武器と装備について、以下に紹介する。[57]

劈楞鐧(へきりょうかん): 秦叔宝が常用する武器。「鑌槍磨成利更堅,衝鋒戳將敢爭先」(良質の鋼を磨いてより堅く鋭利にし、先鋒を衝いて将を刺し、敢えて争先す)との描写がある。

火炎槍(かえんそう): 秦叔宝が使用する槍。「純錟桿,鑽如鋒」(純粋な鉄の柄、先端は鋒の如く鋭い)、「上下縈回弄曉風」(上下に翻弄し、朝風を弄ぶ)との描写がある。

呼雷豹(こらいひょう)/忽雷驳(こつらいはく): 秦叔宝が騎乗する馬。「欺獬豸,勝狻猊,口噴紅霧汗流珠。千金騏驥奔雷疾,萬里神媒掣電飛」(獬豸(かいち)をも凌ぎ、狻猊(さんげい)にも勝り、口には紅霧を噴き、汗は珠を流す。千金の騏驥(きき)は雷の如く疾走し、万里を駆ける神媒(しんばい)は電光の如く飛ぶ)との描写がある。

珍珠瑞應旗(しんじゅずいおうき): 第四十一回において、秦叔宝が単騎で夏王(竇建德)の軍中に突入し奪い取った旗。「鮫人織就,仙姥裁成。頂上攢異寶奇玲,面上繡神蛟怪獸。嚴冬似火,軍前展列自溫和;夏月如冰,陣上舒張無暑烈。異樣遠從西域貢,神奇端的世間無。」(鮫人が織り上げ、仙姥が裁ち成す。頂上には異宝奇玲が集い、表面には神蛟や怪獸が刺繍されている。厳冬には火の如く、軍前に展げれば自然と温かく、夏の月は氷の如く、陣中に広げれば暑さは烈しくない。異様な様は遠く西域からの貢ぎ物、その神奇さは確かに世間に並ぶもの無し)との描写がある。[58]

『説唐』において、秦叔宝の武器は父から受け継いだ金装鐧と、楊林から得た父の遺品・虎頭蘸金槍であり[59]、愛馬は黄驃馬でした。後にさらに、四宝大将・尚師徒から四つの宝物を贈られた。以下に簡単に紹介する。[60]

· 提炉槍(ていろそう)

 重さは120斤。これで傷つけられ出血すると、命は助からない。槍の柄の中央には穴が開いている。行軍中に喉が渇いた時、すぐに清水や茶が手に入るわけがない。しかし、どんな生水でもこの槍を水中に差し込み、それを吸い取って飲めば、甘露の如くであり、渇きを癒すだけでなく、飢えもしのげる。『興唐伝』の講談では、それは「吸水提炉宝槍」と描写されている。槍には環が付いており、鎖で香炉の形をした銅の錘が吊り下げられており、遠くまで打ち出すことができる。靖江宝巻(江苏省靖江市の伝統的な語り物芸術形式)の『羅通掃北』では、次のように描写されている。槍の柄の中央は空洞で、両端に穴が開いている。戦闘中に喉が渇いた時は、この槍で敵の体を突き刺し、口を柄の穴に当てて吸い込むだけで、敵の鮮血が槍の柄を通って口元に流れ込み、甘露へと変わるのだ。

· 呼雷豹(こらいひょう)/忽雷驳(こつらいはく)

 『酉陽雑俎』に記される秦叔宝の馬であり、小説では叔宝が尚師徒から得た馬となっている。その体毛は虎のごとく、尾は獅子の尾のようで、四つの大蹄は鉄砲の頭のようである。頭頂部には肉の瘤があり、その瘤には7、8本の銀針のように硬い白毛が生えている。戦場で勝利すればよいが、戦いが不利になると、この肉瘤の白毛を引っ張る。すると馬は一声咆哮し、口から黒煙を吐く。それを見た凡馬は、失禁して転倒してしまう。例えば第三十九回で秦叔宝が銅旗陣を破った時、呼雷豹が一声咆哮すると黒煙を噴き上げ、敵軍の何千万もの馬が一斉にひれ伏した。

· 七翎甲(しちりょうこう)

 黄金で作られ、魚の鱗のように繋ぎ合わされた甲冑。中央に七つの魚の角がある。これを身に着けている時、刺客や夜襲部隊が近づくと、この七つの角が一斉に立ち上がり、警報を発する。『興唐伝』の講談では、それは「柳葉綿竹宝鎧」と呼ばれており、槍で突き刺しても、刀で斬りつけても貫通しない。

· 馬鳴盔(ばめいかぶと)

 かぶとの正面中央には一粒の珠がはめ込まれており、夜戦においては、この珠が光を放ち、周囲5、6里を照らし出す。これにより、虫や蟻までも見ることができる。

秦叔宝と絶技の鐧

秦瓊の鐧法には「殺手鐧」と呼ばれる絶技があり、後の演義や講談では「撒手鐧」とも称される。例えば講談『興唐伝』では、撒手鐧には三種の用法(馬上連環撒手鐧、歩下連環撒手鐧、馬上の致命的な撒手単鐧)があると説かれており、裴元慶との対戦時、秦瓊は「鐧を見よ」と言いながら左手の鐧を回転させて飛ばし裴元慶の兜を払い、続けて右手の鐧も敵の顔面目がけて飛ばして攻撃を加えている。

『説唐』では、秦瓊と羅成が互いに武芸を伝授し合う「伝槍遞鐧」の際、「一切を隠さず教える」と誓約(秦瓊は「吐血して死ぬ」、羅成は「万箭(無数の矢)に身を貫かれる」と誓う)を交わしたが、秦瓊は最後まで一手の奥義「殺手鐧」を教えず、後に『薛仁貴征東』において、秦瓊が石獅子を持ち上げ力尽きて吐血しまもなく亡くなることで誓約が現実となる(羅成も「回馬槍」を隠して教えず、最終的には泥濘の河にはまり乱射された矢の中で命を落とす)。

「殺手鐧」は後世、民間の慣用句として「決定的な局面で用いる勝敗を決する手段」の喩えともなった。

秦家将物語の概要

「秦家将」は、中国の民間伝承や講談で語り継がれる有名な英雄シリーズであり、唐朝の名将・秦叔宝とその子孫を中心に、秦家が数世代にわたって国に忠誠を尽くし、勇敢に戦った活躍を描いている。物語の背景は、隋から唐への交替期を中心に、太宗李世民の時代まで及ぶ。

秦懷玉(しん かいぎょく)

· 出自: 秦瓊の息子。原型は秦叔宝の息子、秦懷道である可能性が高い。 · 主要な物語: 『説唐全伝』などでは、秦懷玉は李世民の娘・銀瓶公主を妻とし、駙馬都尉となる。秦懷玉の最も有名なエピソードは、唐太宗が東遼に包囲された時、喪服を着て三江越虎城の四門を突破し(「力殺四門」)、敵将を数人討ち取ったことである。後に薛丁山の征西に従軍し、先鋒官を務めたが、界牌関で西遼の大元帥・蘇寶同(蘇定方の孫)の計略にかかり、戦死した。

秦英(しん えい)

· 出自: 秦懷玉の息子、秦瓊の孫。これも講談や小説上の人物である。 · 主要な物語: 『秦英征西』などの作品では、秦英は父・秦懷玉が西涼に包囲されたため、武術試合で元帥に選ばれ、征西に向かった。秦英にまつわる有名なエピソードとして、戲曲『斬秦英』(別名『金水橋』『乾坤帯』)では、秦英が金水橋で釣りをしている時に、国丈の詹太師の行列とトラブルになり、秦英が詹太師を殴打死させてしまうエピソードが描かれている。その後、秦英は罪を償うため、征西に赴いた。

相声関公、秦瓊と戦う(关公战秦琼)

『関公と秦瓊の戦い』は、中国の相声(コント形式の話芸)の古典的名作であり、著名な相声俳優である侯宝林が前人の作品を基に整理・演じたことで広く知られるようになった。

この漫才は、旧社会の軍閥官僚とその家族の無知、横暴、そして専横を風刺している。物語は、山東省の軍閥・韓復榘の父親が誕生日を祝うために京劇を一座に依頼する場面から始まる。しかし、この老爺は愚かで無知であり、「関公と秦瓊の戦い」——即ち、漢の時代の関羽と唐の時代の秦瓊を舞台で対戦させる——という無理な演目を強要する。

この二人は数百年もの時代差があり、同台して戦うことなど本来ありえない。この途方もなく荒唐無稽な要求に、座長と役者たちは泣き笑いしながらも、権力の前に逆らえず従わざるを得ない。結局、彼らは舞台で即興的に、「お前は唐に私は漢、我々二人が戦うのはいったい何のため?」などという笑わせるほど支離滅裂な台詞をでっち上げ、権力者の無知に対し痛烈な風刺と強力な告発を試みる。[61]

後世の信仰

門神二将軍(三教源流搜神大全)

明刻本『三教源流搜神大全』には、秦叔宝と尉遲敬徳が門神になった故事が記されている。門神とはすなわち唐の時代の秦叔宝と胡敬徳(尉遲敬徳)二人の将軍である。伝承によれば、唐の太宗が病に伏せている間、寝殿の門外で瓦が投げられ磚が弄ばれ、鬼魅が号呼するため、三十六宮七十二院ことごとく夜も静かに過ごせない日々が続いた。太宗はこれを恐れ、群臣に相談した。秦叔宝が進み出て奏上した。「臣は平生、人を斬ること瓜を割くが如く、屍を積むこと蟻を集めるが如し。魍魎など何惧るるものぞ。胡敬徳と共に戎装を整えて門に立ち、警護を担当したい」。太宗がこれを許すと、その夜は確かに異変がなかった。太宗は二人を称賛し、「二人に夜通し警護させるのは眠る暇がなくなる」として、宮廷画家に命じて二人の姿を、玉斧を手に鞭と鎖を帯び、弓矢を携え、怒髪天を衝くが如き平時のままの武装姿で描かせ、宮中の左右の門に掲げた。すると邪悪な気は鎮まった。後世この慣習が受け継がれ、遂に永遠に門神として定着した。『西遊記』の中の詞に、「本是英雄豪傑舊勳臣、只落得千年称户尉、萬古作門神」(本来は英雄豪傑、旧くからの勲臣なりしに、ただ落ち着くところ千年戸尉と称えられ、萬古門神と作される)との一節があり、後世に伝わっている。[62]

『西遊記』では、二人が門神になる経緯は魏徴が夢の中で涇河の龍王を斬る故事と結びつけられている。涇河の龍王が占い師と賭けをした結果、天条に触れる罪を犯し、斬罪に処せられることになった。玉帝は魏徴を監斬官に任命した。涇河の龍王は生き延びるために、唐の太宗に助命を懇願した。太宗は承諾し、龍王を斬る時刻になると、魏徴を呼び出して囲碁を打った。ところが魏徴が碁を打っているうちに、うたた寝をしてしまい、魂が天に昇って龍王を斬ってしまった。龍王は太宗が約束を守らなかったと怨み、日夜、宮殿の外で叫びながら命を要求した。太宗が群臣に相談すると、大将の秦叔宝が「尉遲敬徳と共に戎装を整えて門外に立って待機したい」と奏上した。太宗がこれを許すと、その夜は確かに何事もなかった。太宗は二人の将軍の苦労を忍び難く思い、巧みな画家に命じて二人の肖像を描かせ、門に貼らせた。後世の人々にこの習慣が受け継がれ、こうして二人の大将は千家萬戸の門を守る門神となったのである。[63]

伝記資料

  • 旧唐書』巻68 列伝第18「秦叔宝伝」
  • 新唐書』巻89 列伝第14「秦叔宝伝」

脚注

関連項目

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