竹内栖鳳
日本の画家 (1864-1942)
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生涯
京都府京都市中京区御池通油小路の料理屋「亀政」に生まれる[1][2][3][5]。竹内政七・きぬ夫妻の長男で、きょうだいには姉の琴がいる[1][2][3]。「亀政」の常連であった北村甚七という友禅画家が短冊に墨で燕子花を描いたのを幼少期に目にし、心を奪われたという[1][3]。母は1877年(明治10年)に死去[1][6]。父は栖鳳が画家となるのには反対で家業を嗣がせようとしていた[1][3]。
14歳のとき、近所に住む四条派の絵師・土田英林に絵を習い始める[1]。1881年(明治14年)に円山・四条派の幸野楳嶺の私塾へ入門する[7][8][3]。楳嶺より竹内の姓にちなむ「棲鳳」の号を与えられた(鳳凰は竹の実を食べるとされる)[7][3]。入塾から半年後には師の前で《枯蘆》の絵を描いたことで先輩たちを飛び越えて「工芸長」に抜擢された[7][3]。このように門弟の中で頭角を現わし、菊池芳文、谷口香嶠、都路華香とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれる[7]。
1884年(明治17年)から京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に学び、1887年(明治20年)に同校を修了した[8][6]。同年高山奈美と結婚し、これを機に絵師として独立する[8][9]。1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕したほか、髙島屋意匠部で呉服の下絵を描き収入を得ていた[8][6]。1891年(明治24年)、山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興す。1892年(明治25年)の京都市美術工芸品展に《猫児負暄》を出品し三等銅牌を受けるものの、鵺派と呼ばれて酷評された[10][8][11]。その後も日本美術協会展や日本絵画協会展などに出品し受賞を重ねた[10]。 1893年(明治26年)、シカゴ万博に出品[10][12]。
1895年(明治28年)に師の幸野楳嶺が死去すると、その後任として京都市立工芸学校の教諭となった[9]。この時期同校では横山大観も教諭として勤務していた[13]。楳嶺の死にともない、それ以前から橋本菱華、神谷紫山、西山翠嶂などの門人を抱えていた栖鳳のもとには、楳嶺の弟子であった上村松園も加わることとなった[13]。1897年(明治30年)ごろから画塾を「竹杖会(ちくじょうかい)」と称するようになった[14][9]。

1900年(明治33年)8月1日、パリ万博視察のため欧州へ向けて出発する[15][16][17]。神戸を出航後、マルセイユでフランスに上陸し、9月24日にパリへ到着しパリ万博を視察した[16][17]。出品した《雪中燥雀》は銀牌を受けた[18]。その後3か月間ロンドン、アムステルダム、ベルリン、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマなどを歴訪[15][16][17]。ラファエル・コラン、ジャン=レオン・ジェローム、フェルナン・コルモンらと面会を果たした[15][16]。日本出発前に知っていた画家はダ・ヴィンチやラファエロ、ターナーなどだけであったものの[16][17]、ターナーのほかコローやアンジェリコらの作品を実見したことでそれらから強い影響を受けた[15][16][19]。
1901年(明治34年)2月21日に長崎に到着し帰国を果たした[15]。4月の第7回新古美術展に《獅子》を出品して一等賞金牌を受賞[20]。このときから「栖鳳」の雅号を用いるようになった[15][14]。


1907年(明治40年)、文展が開設されるとともに審査員に任命される[21][14]。以後1918年(大正7年)まで在任した[22]。また、1909年(明治42年)、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに専任教諭に就任[14][6]。1924年(大正13年)まで務めた[23][6]。
1912年(明治45年)洛西・嵯峨に別邸を購入し、のちに同所に霞中庵を増築した[14][17]。1913年(大正2年)12月18日に帝室技芸員に推挙され[24][25]、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。1915年(大正4年)には横山大観より日本美術院学術顧問への就任を打診されたものの、これを辞退した[24][14][6]。1918年(大正7年)に弟子の小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花らが国画創作協会を結成すると、その顧問に就任[23]。1919年(大正8年)、帝国美術院会員となる[26][23][6]。
1920年(大正9年)、長男・逸三や娘婿・西山翠嶂らを伴い、中国旅行に旅立つ[26][27][6]。翌1921年にも中国を旅行[26][27][6]。
1927年(昭和2年)に初めて茨城県の潮来を訪れてこの地を気に入り、4度にわたり同地へ赴きスケッチなどを残している[28]。
1929年(昭和4年)に東山の高台寺新邸に御池から転居した[29][28][30]。
1931年(昭和6年)に体調を崩し、神奈川県足柄下郡湯河原町の天野屋旅館[31]を静養のために訪れる[32][33][30]。このときに、湯河原が気に入った栖鳳は湯河原を拠点として活動することとなる[32][33]。1933年(昭和8年)に竹杖会を解散[32][33][30]。1934年(昭和9年)ごろには天野屋の敷地内にアトリエ「山桃庵」を構えた[33][30]。湯河原には女弟子・六人部暉峰(むとべ きほう、1879 - 1956)を伴っている[32][34]。
1935年(昭和10年)の松田源治文部大臣による帝国芸術院の改組には反対の立場を表明し、新帝展への不出品の姿勢を明らかにした[35][33]。1937年(昭和12年)には第1回文化勲章を受章した[35][33][30][18]。
1941年(昭和16年)に「彩管報国」を理念とする日本画家連盟が結成されるとその顧問に就任した[33]。絶筆となった《宮城を拝して》は陸軍省から委嘱された作品であった[36]。1942年(昭和17年)8月23日、天野屋旅館で肺炎により死去[35][27][37][38]。墓所は京都黒谷墓地[39][30]。
画業


その画風は四条派を基礎としているが、狩野派の他に西洋の写実画法などを意欲的に取り入れており、革新的な画風を示すことで日本画の革新運動の一翼を担った。時として守旧派からは「鵺派」と呼ばれて揶揄されたが、大画面を破綻なくまとめる確実な技量のみならず、その筆法には悠然たる迫力を備えており、近代を代表する大家であることは異論が無い。
幸野楳嶺は「画家にとっての写生帖は武士の帯刀である」と説き写生を奨励した。栖鳳は幸野の教えを励行し、当時日本ではなかなか見られなかった珍しいトラやライオンなどの動物から雀や猫などの身近な動物まで多くの動物を描いた。兎、猿、家鴨などは自宅で飼って写生をしている[40]。「写生帖(虫類、鳥類写生)」(1880年ごろ)には、雉の肩や首筋、部位ごとに本物の羽を貼りつけた写生が残されており、「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と評されるほどの卓越した描写力は、綿密な写生から生まれていることが窺える[41]。
昭和期以降は、それまでの緻密な描写とはうってかわり、少ない手数で的確に対象のすがたを描く、「省筆」という画風に到達した[23][42]。
終始官展にとどまり在野の横山大観と画壇の双璧をなし[18]「西の栖鳳、東の大観」と称された。また弟子の育成にも力を入れ、画塾「竹杖会」を主宰。上村松園や西山翠嶂をはじめ、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨、徳岡神泉、村上華岳、福田平八郎、榊原紫峰ら京都画壇を牽引する多くの画家を育てた[43]。
栄典
家族
主な作品

- 《富士川大勝(平家驚禽声逃亡)》 - 絹本着色、1894年(明治27年)、東京国立博物館[46]
- 《大獅子図》 - 絹本着色、四曲一隻、1902年(明治35年)ごろ、藤田美術館[47]
- 《羅馬之図》[48] - 絹本着色、1903年(明治36年)、海の見える杜美術館
- 《雨霽(あまばれ)》[49] - 絹本墨画、六曲一双、1907年(明治40年)第1回文展出品作、東京国立近代美術館[14]
- 《飼われたる猿と兎》[50] - 絹本着色、二曲一双、1908年(明治41年)第2回文展出品作、東京国立近代美術館[51]
- 《アレ夕立に》 - 絹本着色、1909年(明治42年)第3回文展出品作、高島屋史料館[52]
- 《絵になる最初》 - 絹本着色、1913年(大正2年)第7回文展出品作、京都市美術館(重要文化財)[44]
- 《群鵜》 - 1913年(大正2年)、霞中庵 竹内栖鳳記念館[要出典]
- 《日稼(ひかせぎ)》 - 1917年(大正6年)第11回文展出品作、東京国立近代美術館[53]
- 《班猫》 - 1924年(大正13年)第1回淡交会展出品作、山種美術館(重要文化財)
- 通常、猫の体のまだら模様を意味する場合は「斑猫」と書くが、栖鳳自身による箱書きに従い「班猫」とされている[54]。
- 《秋興》 - 絹本着色、1927年(昭和2年)第4回淡交会展出品作、京都国立近代美術館[55]
- 《薫風稚雀・寒汀白鷺》 - 絹本着色、1928年(昭和3年)、三の丸尚蔵館[56]
- 《羅馬之図》左隻
- 《羅馬之図》右隻
- 《絵になる最初》
- 《秋興》