築地

東京都中央区の地名 From Wikipedia, the free encyclopedia

築地(つきじ)は、東京都中央区地名で、旧京橋区に当たる京橋地域内である。現行の行政地名は築地一丁目から築地七丁目。住居表示実施済区域。

概要 築地, 国 ...
築地
町丁
築地市場(移転前2015年当時[1]。)
北緯35度39分53秒 東経139度46分13秒
日本の旗 日本
都道府県 東京都の旗 東京都
特別区 中央区
地域 京橋地域
人口情報2023年(令和5年)1月1日現在[2]
 人口 9,261 人
 世帯数 5,816 世帯
面積[3]
  0.836337244 km²
人口密度 11073.28 人/km²
郵便番号 104-0045[4]
市外局番 03(東京MA[5]
ナンバープレート 品川
ポータルアイコン ポータル 日本の町・字
ポータルアイコン ポータル 東京都
プロジェクト 日本の町・字
テンプレートを表示
閉じる

概要

明治より京橋区役所や現在の中央区役所が置かれ、中央区京橋地域の行政的中枢を担ってきた。そのため警察署郵便局(旧集配局)など行政機関が集中している。東京湾河口部に面している土地柄、日本海軍中央卸売市場築地市場)など、海に関連する施設が存在した。1869年には築地鉄砲洲(現在のから明石町)に外国人居留地も設けられた。地域名の京橋を冠して京橋築地とも呼ばれている。

北に新富および入船、東に明石町および隅田川対岸の勝どき、南に浜離宮庭園および港区東新橋、西に銀座が位置する。明石町・入船・新富同様、域内に「銀座」「東銀座」を名乗るマンションやビルが少なくない。

地理

京橋地域の南部に位置する。

河川

歴史

埋立地

「築地」は元来埋立地の意味で、東京築地も埋立地である。江戸時代1657年明暦3年)の明暦の大火の際に焼失した浅草御門南の西本願寺(現在の築地本願寺)の代替地として佃島の住人によってこの土地が造成された。その後、浄土真宗寺院墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになった。ほかの地域は武家屋敷が数多く立ち並んでいた。

外国人居留区

1869年には築地鉄砲洲(現在のから明石町)に外国人居留地も設けられた。このことから在日アメリカ人子弟向けの学校であるアメリカンスクール・イン・ジャパンの校舎が1902年の開校時に設けられていた。また、中津藩藩士福澤諭吉蘭学塾慶應義塾)を開いた場所でもある。

海軍関係施設

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。過去に築地にあった日本海軍関係施設は以下の通り。

「旗山」の石碑(魚河岸水神社遥拝所境内にて2011年撮影)
1872年明治5年)、元松平定信別邸のあった場所に創立。海軍卿旗を掲揚した浴恩園内の築山は「旗山」と呼ばれた。この地は後に築地市場となり、水神社遥拝所境内に海軍発祥の石碑として「旗山」の碑が設置された[6][7]
1869年(明治2年)、海軍操練所として元芸州蔵屋敷内に創立[8]、翌年に海軍兵学寮に、さらに1876年(明治9年)に海軍兵学校と改称された。1887年(明治20年)に広島江田島に移転された。
1873年(明治6年)、海軍病院付属学舎として創立。1880年(明治13年)に廃校となるが、1882年(明治15年)に海軍医務局学舎としてに再興され、1889年(明治22年)に海軍軍医学校と改称された。さらに1908年(明治41年)に築地に移転され、1929年昭和4年)に築地五丁目に新築移転され、現在敷地は国立がん研究センター中央病院となっている。
1857年安政4年)、江戸幕府が講武所内に軍艦教授所として開設。1859年、勝海舟が砲術教授となり改名。オランダから寄贈された「観光丸」(旧名「スンビン号」)で乗員訓練が行われた。
1888年(明治21年)、それまで芝山内天神谷にあった海軍会計舎を移転、1907年(明治40年)に改名。1932年(昭和7年)に勝鬨橋西詰に新築移転され、太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)に廃校となった。

大正から昭和初期

1918年(大正7年)8月15日、東京市中で拡大した米騒動1918年米騒動)の群衆約1万人が築地にも到達。逓信省農商務省等の官庁や築地精養軒などが投石による被害を受けた[9]

1923年(大正12年)、関東大震災が発生し、築地一帯は焼け野原となった。帝都復興計画に基づいて晴海通り新大橋通りなどの大規模な道路の建設と区画整理が行われ、それに伴い多くの寺院が移転していった。復興が一段落した1935年には日本橋の魚河岸が築地の海軍用地に移転され、場外にも市場が形成された(築地場外市場)。

現在

第二次世界大戦中は築地市場の出荷が停止して閑散としていたが、1950年(昭和25年)に出荷が再開されると築地はたちまち息を吹き返した。1966年(昭和41年)7月1日住居表示が実施された[10]

築地市場は敷地が手狭でトラックの駐車スペースなどが少なく、深夜早朝時には周辺道路にトラックの違法駐車が列をなして危険であった。施設の老朽化が進んでいたことから、卸売市場は2018年(平成30年)10月に豊洲市場(東京都江東区)へ移転。2020年(令和2年)以降跡地の再開発が計画されている。

卸売市場の豊洲移転後も、一般消費者も利用できる商店街である築地場外市場はそのまま残った。築地場外市場には中央区により生鮮食品の小売市場である築地魚河岸が設置され、食の街としての機能が維持されている。中央区は東京都心の一角であり、築地とその周辺には企業のオフィスやマンション、店舗が多い。ホテルも増えており、住民や来街者に加えて外国人を含む観光客も多く訪れおり、卸売市場の移転後も飲食店はにぎわっている[11]

町名の変遷

さらに見る 実施後, 実施年月日 ...
実施後 実施年月日 実施前(特記なければ各町名ともその一部)
築地一丁目 1966年7月1日 築地一丁目、築地二丁目、築地三丁目
築地二丁目
築地三丁目
築地四丁目 築地四丁目(全域)
築地五丁目 築地五丁目(全域)
築地六丁目 小田原町二丁目(全域)、小田原町三丁目(全域)
築地七丁目 小田原町一丁目(全域)
浜離宮庭園 築地六丁目(全域)
閉じる

世帯数と人口

2023年(令和5年)1月1日現在(中央区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]

さらに見る 丁目, 世帯数 ...
丁目世帯数人口
築地一丁目 605世帯 888人
築地二丁目 772世帯 1,107人
築地三丁目 619世帯 945人
築地四丁目 502世帯 667人
築地五丁目 316世帯 391人
築地六丁目 1,088世帯 1,889人
築地七丁目 1,914世帯 3,374人
5,816世帯 9,261人
閉じる

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

さらに見る 年, 人口 ...
人口推移
人口
1995年(平成7年)[12]
4,372
2000年(平成12年)[13]
4,782
2005年(平成17年)[14]
5,795
2010年(平成22年)[15]
6,691
2015年(平成27年)[16]
7,975
2020年(令和2年)[17]
8,599
閉じる

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

さらに見る 年, 世帯数 ...
世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[12]
2,132
2000年(平成12年)[13]
2,579
2005年(平成17年)[14]
3,538
2010年(平成22年)[15]
3,993
2015年(平成27年)[16]
5,010
2020年(令和2年)[17]
5,355
閉じる

学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2025年4月現在)[18]

さらに見る 丁目, 番地 ...
丁目番地小学校中学校
築地一丁目全域中央区立京橋築地小学校中央区立銀座中学校
築地二丁目全域
築地三丁目全域
築地四丁目全域
築地五丁目全域
築地六丁目全域
築地七丁目全域中央区立明石小学校
閉じる

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[19]

さらに見る 丁目, 事業所数 ...
丁目事業所数従業員数
築地一丁目 247事業所 9,887人
築地二丁目 532事業所 7,850人
築地三丁目 278事業所 4,038人
築地四丁目 428事業所 5,533人
築地五丁目 162事業所 20,935人
築地六丁目 317事業所 4,803人
築地七丁目 161事業所 4,204人
2,125事業所 57,250人
閉じる

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

さらに見る 年, 事業者数 ...
事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[20]
3,139
2021年(令和3年)[19]
2,125
閉じる

従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

さらに見る 年, 従業員数 ...
従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[20]
54,091
2021年(令和3年)[19]
57,250
閉じる

主な企業

地域

公的機関
教育

観光

交通

画像一覧

その他

日本郵便

関連項目

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI