義帝
秦末の反秦勢力の名目上の盟主。2代西楚皇帝
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生涯
楚の王族であったが、紀元前223年に秦によって楚が滅ぼされた後は野に身を潜めて羊飼いとして暮らしていた。
項梁に擁立される
二世元年(紀元前209年)7月の農民反乱に端を発する反秦動乱期において、反乱指導者の一人であった楚の名家の末裔項梁は范増の進言を採用し、楚再建の旗印とするために熊心を見出し、楚王として擁立した。熊心は民衆の要望に沿う形で祖父の諡号を受け継いで懐王を名乗り、盱眙に都を置いた。
楚王として差配する
二世2年(紀元前208年)9月、秦の将軍・章邯が定陶で楚軍を撃破し、項梁は戦死した。この時、懐王臣下の劉邦と項羽は遠征中で陳留を攻撃していたが、項梁戦死の報が届くと軍を東に引き返し、遷都した彭城に駐屯した。懐王は項羽と呂臣の両軍を統合し、自らが直接統率する軍として編成した。さらに王として人事権を行使し、呂臣を司徒に、その父の呂青を令尹に、劉邦は碭郡長に任じ、武安侯に封じた。項梁の後継の楚軍大将には宋義を任命し、自らの側近として兵権を掌握させた。
項梁を討ち取った秦軍は北の趙を攻撃する方針に転じており、懐王は趙の援軍要請を受け、宋義を上将軍とし、項羽・范増・英布らを属させて趙救援軍として北上させると同時に、諸将に対し「先に関中に入り平定した者をその地の王とする」という条件を定めた懐王の約を公示した。この際、項羽は関中進攻を希望したが、懐王は配下からの「項羽は狡猾で残忍であり、通過する所はことごとく破壊し尽くされている」との進言を容れて認めず、苛法で苦しんできた秦の民衆を帰順させるためには度量が広く徳のある年長者が適任として劉邦にのみ関中進攻を命じた。
高祖元年(紀元前206年)10月、関中に入った劉邦が秦王子嬰を降伏させ、秦を滅亡させた。一方、宋義は項羽に殺害され、項羽の使者から「宋義が謀反を起こそうとしていたため誅殺した」と報告を受けた懐王はやむなく項羽を上将軍に昇進させた。楚軍大将に任じられた項羽は、鉅鹿の戦いで秦の主力軍に大勝を収めた後、40万の大軍を率いて12月に関中に入った。
項羽に実権を奪われる
諸侯軍の盟主的地位を築いていた項羽が諸侯の封建について上書すると、懐王は「約の通りに(劉邦を関中王と)せよ」と返答した。これに項羽は不満を露わにし、諸侯に対して「懐王は我が一族が擁立したに過ぎず、秦を滅ぼし天下を平定したのは私と諸将である」と発言したと記録されており、もはや両者の君臣関係には決定的な亀裂が生じていた。項羽は懐王に「義帝」の尊号を贈って形式的に敬う一方で、自ら各地に功績があると判断した諸侯を分封し、項羽自身は「西楚覇王」と号して彭城を都と定め、劉邦は漢中に左遷し漢王に封じた。この時点で懐王は項羽によって既に実権を奪われており、項羽の封建を阻止する権力は失われていたものと推測される。
弑逆
高祖元年(紀元前206年)4月[1]、諸侯たちは解散し、各々の封国へ赴いた。項羽も封国に出立するにあたり、彭城を自身の都としたため、義帝には「古来より帝王は千里四方の地を治め、必ず河川の上流に居所を定めるものである」と託けて、辺境の長沙郡郴県へ移るよう迫った。仕方なく義帝は移動を始めたが、その臣下たちは次第に義帝に背いて離れていった。項羽は義帝が通過する地域を治める3人の王(九江王英布、衡山王呉芮、臨江王共敖)に密命を下し、道中で義帝を殺害させた。殺害の経緯は史料によって差異があり、項羽が義帝殺害を命じたことは共通するが、『史記』項羽本紀では「呉芮と共敖が長江の水上で殺害した」、同書の黥布列傳では「8月、英布は配下の将軍に命じて義帝を郴県まで追撃して弑逆した」となっている。
死後
義帝の死により、反秦勢力の実質上の盟主もしくは秦滅亡後の中国の実質上の元首としての項羽の政治上の正統性が失われた。これによって楚漢戦争で劉邦は大逆を犯した項羽を天に代わって討ち果たすという大義名分を得ることとなった。
高祖2年(紀元前205年)3月、項羽に反旗を翻した劉邦は軍を率いて洛陽を目指す途中、新城の董公という人物から項羽が義帝を弑逆したことを知らされた。劉邦は直ちに全国に檄文を発して項羽を糾弾、各諸侯王が軍を率いて要請に応じ、劉邦は総勢56万の連合軍を得て項羽討伐の兵を挙げた。
紀元前202年、劉邦が項羽を敗死させて天下を統一し、前漢王朝を建立した後、王陵・周勃・樊噲を郴県に遣わし、義帝の祭祀を行わせた。