羿
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羿(げい、拼音: イー)は、中国神話に登場する最大の英雄の一人。后羿(こうげい、拼音: ホウイー)、夷羿(いげい、拼音: イーイー)とも呼ばれる。太陽神と災厄の魔獣を撃墜した弓の名人となる、世界を救ったが、妻の嫦娥(じょうが)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙(ほうもう)によって殺される、悲劇的な英雄である。

羿の伝説は、『楚辞』天問での太陽を射落とした話(射日神話)が知られるほか、その後の時代に活躍した君主である后羿を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、神話学者の袁珂は前者を「大神羿」、後者を「有窮后羿」と称し分けることもある。数多の漢詩と民話が「后羿射日」[1]を称え、后羿(Hou Yi)という通称は中華圏で国民的な知名度を有する。
『説文』の漢字「羿」は風に向かって舞い上がる羽を意味し、空中の羽飾りの矢と見なせる[2][3]。一部の原典では羿を弓の発明者と記し、名前自体が弓矢と関わる[4][5]。
中国の山西省屯留県では、羿は三嵕(さんそう)の山神信仰と習合し、国家祭祀において「霊貺王」(れいきょうおう)の神名を授けられ、雨乞いを司る[6]。当地の伝承では、羿が残した一本の矢の白羽と紫の組紐が、山頂の白松と紫雲に化したとされる。
日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており、『将門記』(石井の夜討ちの場面)[7]や『太平記』(巻22)などに弓の名手であったことや9個あった太陽を射落としたことが引用されているのがみられる。
堯の時代の羿
羿射九日
帝夋(東方の天帝)には羲和(日御神)という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子を産んだ。この10体の太陽はそれぞれ金烏に乗せられていて(異説として日輪内の三足烏、或いは陽烏を太陽の精とする[8])普段は極めて巨大な神樹である扶桑もしくは若木の所で生息や入浴をしていた、そして交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負う[9]、この十日を一旬と呼ばれることになる。当番の太陽が天空に上ると、残る9羽の陽烏は下方の幹枝に憩う[10]。時に、天上の陽烏が地上の仙草をこっそり食べたがり、羲和が手でその目を覆い、天体が地面に近づかぬよう保った[11]。

ところが天子である帝堯の時代に、太陽たちが遊びたくて、一遍に現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、全ての植物は枯れ[12]、あらゆる金属が融けた[13]。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう、天界から神射手である羿を降ろした。帝夋は羿に彤弓(朱塗りの弓)と素矰(白羽の矢)を与えた[14]。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを、元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで、1つだけ残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[15]。
落日の後、太陽の残骸は東海の最果てに墜ち、縦・横・高さ四万里の山石と化し、沃焦(よくしょう)あるいは尾閭(びりょ)と呼ばれたと伝えられる[16]。この焦熱の巨岩は絶えず百川の水を吸収し蒸発させるため、海は増水しても満溢することがない。
神魔討伐
射日の事跡以外にも、羿は人間界の各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの凶獣(鑿歯・九嬰・大風・窫窳・修蛇・封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた[17](退治の順序は諸説あり、地上の凶獣を退治する途中で陽烏を射落とした話もある[18][19])。
そのうち、凶水という川で、羿は火と水の能力を持つ他は全く正体不明の怪物・九嬰を殺した[20]。九嬰は9つの幼子の姿とされる説と、九日[21](9人の太陽神)が凶暴化した姿とする説が存在する[22]。また、窫窳は元来は蛇身人面の善神であったが、崑崙の弱水で死して蘇った後、龍頭の食人悪獣・猰貐(あつゆ)へと変わり、これより羿に誅された[23]。

悪神の中、青丘の沢で民の家屋を破壊する暴風の神・風伯(前述の怪鳥・大風と同一視される)の膝を射抜いた以外に、羿は民を溺死させる黄河の神・河伯(白龍に化身した姿)の目を射抜いた[24]。河伯は天帝に訴え出たが、天帝は「汝が神霊の本分を守らず獣に変化した以上、射られるのは当然」として羿の無罪を認めた[25]。
洞庭という湖で、羿は象を吞み込む大蛇・巴蛇(修蛇と同一視される)を射殺し、その骸骨が積み重なって巴陵・巴丘となった[26]。後に羿が巴山で狩猟中、驢のような巨兎を捕獲したが、途中で籠から逃げ出した。実は巨兎は巴山の神・鵷扶君(えんふくん)であり、この恥辱に報復するため、「羿の弟子の手を借りて彼を殺す」と誓った[27]。
さらに、桑林という森で、羿は神獣である魔猪・封豨(伯封と同一視される)を討ち、その肉を蒸し料理として天帝に供物を捧げた。しかし、天帝である帝夋は喜ばれなかった。これは羿の所業に対する不満によるものと考えられる[28]。
不老不死の薬
羿が仙薬を求めた契機は具体的に不明である。自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり[17]、羿と妻の
なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩(正月十五夜)に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある[33]。
逢蒙殺羿
その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、東海出身の弟子である逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技をすべて吸収した後、「羿を殺してしまえば僕が天下一の弓の達人だ」と考え、桃棓(桃の木の棒)で羿を打ち殺したと言われる。このように身内に裏切られることは「羿を殺すものは逢蒙(逢蒙殺羿[34])」として語り継がれるようになった[35]。桃に死した羿と、剣に死した剣士・慶忌、弁舌に死した論客・蘇秦は、人が自らの長所を信じたがゆえに、熟知した物事によって破滅を招く例とされる[36]。羿の桃への熟知は、追儺儀式における破邪の祭具・桃弧(桃の弓)との関連が指摘されている[37]。
この事件が、桃の木が邪気を払う力を持つという中国の民間信仰の起源となった。鬼(死霊)でさえも恐れる英雄・羿でさえ桃の木に敗れたことから、すべての鬼は桃を恐れるようになったとされる[38][39]。
宗布神の転化
羿の死後、民衆は彼が生前に世界の害を除いたため、冥界の宗布神(そうふしん)として奉った[40]。宗布神は百鬼を統率し監督する役割を担い、祠堂に置かれた桃の木の像として祀られ、悪鬼を退治すると信じられた[41]。その宗布は『周礼』に贄を受けるの禜酺(ようふ)と同一視され、旱災・水災・人災を祓う神様である[42]。後世の鍾馗と類似した性格を持つとも見なされる[43]。
『淮南子』において、宗布神の羿は竃神の炎帝・社神の禹・稷神の后稷と共に、天下に功績のある聖人として鬼神の列に並んでいる[44]。また、漢王朝の占卜書『易林』には、侵略を司る凶星・天狼星を羿が射貫くよう民衆が祈願する籤詩が記されており、武勇の神性の顕れである[45]。『楚辞』九歌における武神と太陽神である東君が「天狼星を射る」とする記述と同一視される[46]。
夏の時代の羿
別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『春秋左氏伝』などにあるもので夏王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている[47]。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある[48]。白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。
異常出生譚
后羿は鉏(現在の河南省滑県[49])の地の豪族・有窮氏(有穹氏)の出身であり、窮国の諸侯の一族であった。有偃氏であり皋陶の末裔であるという伝承や、有鬲氏の出身であるとする説などがあるが詳細は不明である[注釈 1]。
生まれつき、后羿は左腕が右腕より長く、生来の射術の達人であった。子供の頃に、羿は両親に連れられ薬草採りで山に入り、蝉の止む木の下に置き去りにされた。戻って探した両親は、森の蝉が一斉に鳴いたため羿を発見できなかった。その後、彼は山中の森羅万象に養われて成長した[50]。
山中で、后羿は楚弧父もしくは楚狐父(そこほ)(『帝王世紀』では吉甫)という狩人によって保護された。楚弧父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった呉賀(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。
伝承によれば、后羿が二十歳で成人した時、天を仰ぎ嘆く「四方に放った矢は必ず我が門に届く」と。矢は地面すれすれに飛び、果たして羿の家の門に届いた。羿は矢の軌跡を辿って帰還した[51]。
夏王朝の僭主
太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。射猟に没頭する太康は、臣下に大猪の皮で作られた的を射るよう命じ、后羿はこの試合で頭角を現した。ある時、太康が洛水の南岸に赴き、十旬も都へ帰還しなかったため、夏王朝は混乱に陥った[52]。
后羿は、武羅(ぶら)などの臣と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南[53])を都として諸侯を支配下に置くこととなる。
一説には、羿は夏の民のために暗君・太康を倒し[54]、「帝夷羿」と自称して中国史上最古の王位簒奪者となった[55]。別の記録では、羿は夏の王権を取代せず、権臣として朝政を掌握し続けたとされている[56][57]。
羲和討伐
仲康(夏の第4代帝)の5年、日食が発生した[58]。太陽観測を司る官である羲和は職務を放棄し、天体の運行を把握できなかったため、暦法は混乱に陥った。大司馬の胤侯(いんこう)は命令を受け、大軍を率いて羲和を討伐に向かった[59]。この『仲康日食』は予測不能であったが、世界最古の日食記録とされる。
宋王朝の文豪・蘇軾は、『春秋左氏伝』『史記』などの記事にもとづき、羲和討伐の一件を次のように解する。仲康の当時は、后羿が専権をふるっており、羲和が「湎淫」していたというのは、羿への反抗であった。羿は仲康の命令という名目を借りて、みずからに反抗する羲和を、胤侯に討たせたのである[60]。
封狐と純狐
当時、音楽を司る官である夔(后夔)には伯封(封豨・封狐とも書かれる)という子がおり、猪の心を持ち横暴であったと伝えられる。羿は伯封を討ち果たし、夔の祭祀を絶った。
その後の羿は、伯封の母である玄妻(純狐とも書かれる)を娶り[61][62]、
寒浞殺羿
最後は玄妻と寒浞によって相王(夏の第5代帝)の8年に后羿を殺されてしまった。寒浞は桃梧(とうご)という地で羿を処刑し、その遺体を烹に処した[63]。
『春秋左氏伝』『楚辞章句』によれば、后羿は自宅の農地へ逃げ帰ったが、寒浞と通じた家僕に裏切られ、烹殺か射殺された[64]。この家僕は、前述の羿の弟子・逢蒙と同一人物と見做される[65]。
二者の関係性
漢王朝の学者・高誘は、堯の時代の羿と夏の時代の羿は別人だと指摘した[66]。晋王朝の文学者・郭璞は「有窮の后羿が堯の時代の羿を慕い、その号を継承した」と説明している[67]。唐王朝の儒学者・孔穎達も「羿は善射者の呼称であって人名ではない」と唱えた[68]。さらに近代の神話学者・袁珂は高誘の見解を支持し、「大神の羿」と「有窮の后羿」を区別した。しかし袁珂は、「羿が封豨を殺した伝承と后羿が伯封を殺した伝承」「羿が河伯の妻・洛嬪を奪った伝承と后羿が后夔の妻・玄妻を奪った伝承」「逢蒙が羿を裏切った伝承と寒浞が后羿を裏切った伝承」が同源の分化であるという見解を留めている[69]。
顧頡剛の学派が出版した論文集『古史辨』は羿の説話を3種に分類した。神話家の伝説[70]では『淮南子』が羿を堯の時代の英雄として封豨を射ることを功績とし、詩歌家の伝説[71]では『楚辞』が羿を夏の時代の暴君として伯封を射ることを罪業とし、伯封を神話の封豨が民話化したものと見なした。儒家と墨家[72]は嚳の時代の羿[73]・堯の時代の羿・夏の太康の時代の羿・周の幽王の時代の羿[74]を列挙し、「羿は弓制作を世襲する官職名」として時代を跨ぐことを説明した。
古史辨派は、羿が古代伝承では単一人物であったが、伝承の分化により後世で複数人物と見做されるに至ったと結論付けた[43]。文献の年代から見れば、漢代以前の記述は夏の時代の羿を指す傾向があり、堯の時代と嚳の時代の羿に関する記述は漢代以降に現れる。後世には、天帝(帝夋)の物語上の位置は歴史化の帝王(帝嚳と帝堯)に取って代わられ、『帝王世紀』では彤弓と素矢の授与者が天帝から帝嚳へと移った[75]。射日神話の最古の原典・『楚辞』では、「羿が天帝の命を受け夏の民の災禍を革める」の記述も「河伯と封豨を射る」の記述も、いずれも夏王朝の后羿を指しており、英雄と暴君の両面を併せ持つ[76]。
同一人物と考える学者の中では、茅盾が『中国神話研究ABC』で「神性の羿が歴史化されて人性の羿となった」と唱えた[77]。また、アンリ・マスペロは『書経中的神話』において、夏王朝の羲和は日神の羲和の「エウヘメリズム化」であると論じている[78]。
なお、歴史神話化という観点を持つ現代の学者も存在する。尹栄方は、「羲和討伐」の本質は太陽に関連する暦法改革であり、これが「射日神話」の歴史的原型だと論じた[79]。銭宗武も、「胤」は「羿」の通仮字であり、「胤征羲和」の物語は「羿射九日」の神話の源流であると指摘している[80]。
文学作品での羿
漢詩以外にも、羿は明清期の文学作品に活躍している。中華民国時代の大文豪・魯迅の『故事新編』と鍾毓龍の『上古秘史』は、これらの創作物を素材の典拠としている。
西遊記
天地開闢以来、太陽星は10個あったが、羿で9個が射落とされ、残存する金烏星が本物の太陽となった。他の陽烏は「九陽泉」へと変化し、香冷泉・伴山泉・温泉・東合泉・潢山泉・孝安泉・広汾泉・湯泉・濯垢泉と呼ばれる。このうち濯垢泉は作中で蜘蛛の精の巣窟として登場する[81]。
開闢演義
作中の羿は平羿(へいげい)と称され、堯の臣下である。本作における羿の偉業は、質朴に解釈されている。堯の命により羿が射落とした9つの太陽は、幻日の邪火であった[82]。「大風」は風伯の放つ嵐と解され、羿は土壁を築いてこれを防いだ。また、猰貐・封豨・修蛇は害獣の総称であり、羿は兵士らと共に餌と罠でこれを捕えた。日害・風害・獣害を平定した後、羿は落陽侯(らくようこう)及び総平侯(そうへいこう)に封じられた[83]。
羿が功業を成し遂げる間、西王母は羿の妻の孤独を慰めながら仙薬を調製した。ある満月の夜(堯の62年の八月十五夜)、妻が預かっていた仙薬を取り出すと、羿が服薬を提案し、西王母の信頼を背いた。結果、妻は月の仙女・嫦娥となり、羿は逆に月の蟾蜍へと変じた[84]。
夏商野史
作中の羿は夏の有窮国の后羿であり、堯の時代の羿ではないが、夏の時代に太陽を射落とした。佞臣と共に暗君・太康に仕えることを拒み、羿は四耳の神馬に乗り、東海へ冒険と修行の旅に出た。三島(蓬莱・方丈・瀛洲)において、羿は仙人から賜った仙棗を食し、不溺の能力を得て、羽毛すら沈む弱水を渡れるようになった。不死国では、西王母の助言を得て、不死の葉を採った。有窮国へ戻った後、羿は太康から絶世の美女である妃・嫦娥を献じるよう要求される。羿は反抗しようとしたが、武羅ら賢臣に諫められて従った。そこで嫦娥は不死の葉と不飢の珠を盗み、羿の馬車に乗り、応龍を駆って逃亡した。途中、嫦娥は空中飛行の能力を得たことに気づき、西王母の導きで日月の山へ飛び、月宮の神・玉兔の主となった[85]。
怒った太康は羿の封地を削減し、悪政を続けた。数年後、夏の都で内乱が発生し、羿は兵を率いて王都に入り、太康の弟・仲康を天子に立てた。仲康の治世下、大司馬の胤侯は羲和と東夷の反乱を平定し、その功績によって羿と拮抗するようになった[86]。その後、仲康の子・相の治世に、東海の勇者・逢蒙に援けられた東夷は胤侯の死後に再び反乱を起こした。戦いの中で、羿は逢蒙を降伏させた。羿は指と歯の隙間で逢蒙の放つ全ての鏃じりを挟み止め、矢の尾羽を彼目がけて弾き返した。逢蒙は羿の技を「神人の射術」と讃え、自ら師事を願い出た。孤独を感じる羿も、弟子の相伴を望んでいた。
狼心を持つ寒浞の加勢により、羿と逢蒙は簒奪に反対する賢臣たちを追放した。羿が相王の帝位を簒奪した後、無限の妖風と怪異が、王権簒奪者の開祖に対する天罰として現れた。羿は逢蒙と師弟共に、悪風の神・獰飈(大風)、桑林の獣・翌虎(封豨)、洞庭の巨亀(河伯の使者)、崑崙の盾兵・雕題(鑿歯)を退治した。その途上、逢蒙は射術の差に嫉妬を感じ、天下一の弓人となるため、寒浞の扇動により羿の謀殺を決意した。雲中の獣・猰貐を単独で退治した後、羿が酔いつぶれた夜、逢蒙はその咽喉を射抜き、羿は逢蒙と寒浞の陰謀を言い当て、自ら矢を抜いて絶命した[87]。
七十二朝人物演義
作中の羿は堯の時代の偃羿(えんげい)であり、夏の時代の夷羿(いげい)とは区別されるが、本作の設定には混用が見られる。偃羿は弓術の天才で、7歳から独学で矢を射ち、16歳で楚弧父に師事し、わずか1ヶ月で全技を習得した。彼は楚弧父から軒轅黄帝の魔除けの兵器・桑弧弓と雕翎箭を授けられた。荊州において、羿は桑弧弓の宝光で桑林の悪獣・封豨を覆い、雕翎箭でこれを射殺した。荊州の長官である鯀は羿の功績を天子に報告し、天子である堯は羿を徐州の水怪退治に派遣した[88]。
この水怪の正体は黄河の水神・河伯であり、妻である嫦娥のために水府の宮殿を拡張し、岸辺の作物と平民を水没させていた。河伯と嫦娥は羿の弓の光に驚き、水面に上がって羿を遠望した。嫦娥は羿が少年英雄であり天仙の資質を持つと見て、逃げ出して彼に従うことを決意した。彼女は自らが河伯に攫われた宓妃(洛嬪)であると告げ、羿と夫婦となり河伯討伐を助けることを申し出た。河伯を射殺した後、羿は帝堯から少司馬に封ぜられ、青州の大風退治に派遣されるが、不本意ながらも妻と一時的に離れた[88]。
青州にて、羿は西王母に助力し西方の金獅を降伏させ、風害を平定した功績により九転金丹(きゅうてんきんたん)なる仙薬を授かった。帰宅後、嫦娥が西王母のことを尋ねると、仙薬は二つなく、羿は自分が既に服薬したと嘘をつき、再会時に改めて請うと約束しながら、実際には金丹を梁の上に隠した。その時、突然空に10個の太陽が現れ、帝堯は羿に9つの妖日を射落とすよう命じた[88]。
羿が放った9本の矢は、太陽の本体に届かなかった。しかし彼の敬虔な祈りが天意に触れ、9つの妖日は跡形もなく消えた。嫦娥は日輪を直視し過ぎた後、薄暗い室内に戻ると、金丹の光を見逃さず直ちに服用し、空中飛行の能力を得て月に至った。木を伐る呉剛(桂男)の加勢により、天仙となった嫦娥は月宮殿を築いた。こうして嫦娥は世に盗みの祖と呼ばれ、失意の羿は生涯再婚せぬと誓った。後年、黄河に大洪水が起きると、羿は禹王(鯀の子)に従い治水に加わり、猰貐、修蛇、白龍、九嬰などの水怪を誅し、その功績により有窮国の君主に封ぜられた[88](夏の有窮国の夷羿については、逢蒙の項も参考)。
八仙全伝
作中の羿はかつて堯の時代に太陽を射落とし、夏王朝まで生きて暴君・后羿となった。羿は西王母により下界へ追放された侍女の嫦娥を娶った。西王母から仙薬を求めた後、羿は薬を嫦娥に預けたが、彼女は暴君に永遠の命を得させまいと服薬し、月へ飛び去った。これら全ては西王母の神算であった:彼女は暴君に不老不死を授けず、羿の手を借りて仙薬を嫦娥に届け、その天界帰還を図ったのである[89]。
怒った羿は月に向けて神箭を放った。嫦娥は墜ちたが、道教の月神・太陰星君に救われる。その不浄の体は太陰星君によって焚かれ、高潔な魂は月宮の仙子の一人へと昇華した。後日、羿は飛行術を習得し、月宮殿に赴いて嫦娥を強引に連れ戻そうとする。月の仙人である吳剛はこれを阻み、巨大な娑羅樹を伐り倒す試練を課す。羿がその娑羅樹が無限に再生する神樹であると悟った時、既に吳剛の仙術によって身動きが封じられていた。天帝の命により、羿の体は有窮国へ戻り、夏王朝の僭主として臣下に倒される。その魂は五千年の間、呉剛に代わって木を伐り続ける罰に就いた[90]。
黑暗伝
作中の羿は、后羿または神羿(しんげい)と呼ばれ、有窮国に降誕した。母胎に19ヶ月間いたが、生まれてすぐに話し、満1歳で空を飛び、一歩で百里を越え、日月星辰を追うことができた。羿は弓矢を発明し、世界樹である扶桑の木で弓幹を作り、天柱である竹の枝葉で矢羽を造った。矢の速度は流星の如くであった。堯の治世に、羿は大獣、大猪、大蛇、風伯、毒蜂、9羽の陽烏(異説では35羽)を退治した。日光真神(にっこうしんじん)は最後の1つの太陽を守り、陽烏たちが偽りの妖日であると説明し、羿を賞賛した[91](叙事詩の異文では、蟾蜍が龍宮で石卵を産み、神鷹が仙草の巣でその卵を孵して、万里を翔ける有翼の人を生んだという。天帝は彼に「后羿」の名を授け、天将に封じて天庭の侍女・嫦娥と結婚させた。ある日、羿が天門を開けると、全世界の水が10の太陽に干上がっていた。天弓で9つを射落とすと、神鷹の翼が天空を覆い、最後の1つの太陽を守った。羿は蟾蜍に月の上に至り、腹中の清水を注ぐよう求め、大地の水源を回復させた。以来、蟾蜍は月宮殿で夜ごとの露を司るという[92])。
射日神話の変体
漢籍においては、射日神話の異文が存在する。例えば『論衡』では羿の助力なく帝堯自らが9体の太陽を射落とし[93]、『路史』では同じく英雄神である女媧が10体の太陽を射落としたとされる[94]。また、中世日本の説話集『今昔物語集』にも、春秋時代の弓の名手・養由基が10個の太陽のうち9つを射落とした逸話が収録されている[95]。

中華圏では、漢民族が射日神話の最古の書面記録(『楚辞』)を持ち、少数民族にも類似の口頭伝承がある。これにはリー族、プーラン族、チワン族、ホジェン族、モンゴル族、ミャオ族、スイ族、イ族、アチャン族、トゥチャ族、ローバ族、トーロン族、タイヤル族、ブヌン族などが含まれる。しかし、伝説において射貫かれた天体の数には差異が見られる。例えば海南のリー族神話では7つの太陽と7つの月が登場し、それぞれ6つずつ射落とされたとされ[96]、台湾のブヌン族神話では2つの太陽のうち射抜かれた1つが白い月輪へと変化したと伝えられる[97]。
なお、日本にも一部の射日神話の残存が見られる。岡山市の民話では天邪鬼(あまんじゃく)が7つの太陽のうち6つを射落としたとされ[98]、狭山市の民話では天子が派遣した弓の名人が2つの太陽のうち1つを射抜き、落下した太陽は白い三足烏へと変化したと伝えられている[99]。