藤枝教行
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生涯
藤枝家
寛政重修諸家譜によると養子先の藤枝家は、徳川家光側室の順性院(お夏)の父で元町人から士分を得た岡部重家を家祖とし、お夏の方の弟である藤枝方孝の代で旗本に取り立てられ、甲府藩家老になって藤枝氏を称した家であった。父の方教の代で綱重の子の徳川家宣が将軍に就任した際に、甲府藩領は幕府直轄として収公され、藩家臣団も幕臣として吸収されたため、藤枝家の子孫は幕府直参として4500石の大身旗本となった。なお、方教の長女が徳山秀栄(又兵衛)の正室となり、後に離別しているが、これが教行の祖母にあたる。
4500石の旗本寄合席になって以降の藤枝家は、教行の実父や舅のように目立った幕職に就くことはなく、武鑑において大叔父の藤枝豊忠が駿府加番や寄合金上納支配として掲載されている程度であった。
心中事件
大身である教行は、新吉原江戸町一丁目の妓楼大菱屋九右衛門抱えの遊女綾絹(綾衣とも。妻みつと同じ年の19歳)と深い仲になった。ところが綾絹の身柄を裕福な商人が身請けするという話を聞いたとも、吉原遊びが幕府の知れるところとなり、江戸を離され甲府勤番支配に回されることとなったともいうが、いずれにせよ教行は綾絹に会えなくなると思い詰め、正式な手続き無しで吉原から綾絹を連れ出し逃走した。しかし程なく追っ手に見つかり、進退窮した2人は餌指[注釈 2]の家で天明5年(1785年)に心中した。
この当主の行動に藤枝家では、教行ではなく家人の辻団右衛門が死んだことにしてその死を隠蔽しようとしたが、やがて幕府役人に露見した。妻とその母本光院は縁者宅の一室に押し込め処分となり、大身旗本藤枝家は改易処分となった。
長男の貞吉は早世しており、改易ののち、次男の安十郎は外祖父の山田利寿のもとに寓居し、三男の寅之助は従弟徳山貞栄のもとに寓居した。
江戸でこの事件は大きな話題を呼び「君とぬやるか(寝ようか)五千石とるかなんの五千石君とねよう」(大田南畝『俗耳鼓吹』(1788年))という端唄が流行した。実際の藤枝家の知行は4千石から4千500石であり5千石には満たないが、語呂が良いので俗謡にはそのように謡われた。この事件を題材にして、1911年5月に岡本綺堂が戯曲「箕輪の心中」として雑誌『演藝画報』に発表した[2]。