許州

隋朝の州 From Wikipedia, the free encyclopedia

許州(きょしゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から民国初年にかけて、現在の河南省許昌市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

東魏天平初年に置かれた潁州を前身とする。潁州は長社県に治所を置いた。549年武定7年)、潁州は鄭州と改称され、治所は潁陰県に移された。鄭州は許昌郡潁川郡陽翟郡の3郡を管轄した[1]北周のとき、鄭州は許州と改称された。

隋代

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、許昌郡や潁川郡は廃止されて、その属県は許州の直轄とされた。605年大業元年)に広州が廃止されると、その管轄県の一部が許州に移管された。607年(大業3年)には郡制施行に伴い、許州は潁川郡と改称され、下部に14県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

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唐代

621年武徳4年)、により潁川郡は許州と改められた。742年天宝元年)、許州は潁川郡と改称された。758年乾元元年)、潁川郡は許州の称にもどされた。許州は河南道に属し、長社・長葛・許昌・鄢陵・扶溝・臨潁・舞陽・郾城の8県を管轄した[3]813年元和8年)、韓皐が許州刺史・忠武軍節度使となり[4]、以後、許州に忠武軍節度が置かれるようになった。

宋代

1080年元豊3年)、北宋により許州は潁昌府に昇格した。潁昌府は京西北路に属し、長社・郾城・陽翟・長葛・臨潁・舞陽・の7県を管轄した[5]

が潁昌府を奪うと、許州の称にもどされ、昌武軍節度が置かれた。許州は南京路に属し、長社・郾城・長葛・臨潁・襄城の5県を管轄した[6]

元代

のとき、許州は汴梁路に属し、長社・長葛・郾城・襄城・臨潁の5県を管轄した[7]

明代以降

のとき、許州は開封府に属し、臨潁・襄城・郾城・長葛の4県を管轄した[8]

1724年雍正2年)、により許州は直隷州に昇格した。許州直隷州は河南省に属し、臨潁・襄城・郾城・長葛の4県を管轄した[9]

1912年中華民国により許州直隷州は廃止され、許昌県と改められた。

脚注

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