近松行重
1670-1703, 江戸時代前期の武士
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生涯
寛文10年(1670年)、近松行生の子として誕生。馬廻役で二百五十石[1]。異母弟に奥田行高、他に討ち入り不参加の弟二人、異母妹のお百がいる[2]。
源義高の末流を称し、先祖は近江国の佐々木六角家の典医・近松家を継いだ。祖父の近松伊看は豊臣秀頼に仕えて、後に法眼に叙せられる医師となり、三次浅野家に仕えた。その後、浅野長直の懇願により赤穂藩の典医として仕えたともされる。父・行正も医者だったという。 しかし『誠忠義士伝』では、行重は赤穂浅野氏の譜代家臣であったと書かれ[3]、赤穂の大石神社に先祖代々使用した槍が奉納されている[4]。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下で主君・浅野長矩が吉良義央へ刃傷におよび、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。赤穂城開城後、早水満尭と高野山へ登り、浅野長矩の碑を建立している。その後、近松家本家がある近江国野洲郡蛭田(現・滋賀県野洲市)へ隠れ住み、一時本家近松伊井の猶子となり[5]、大石良雄ら同志と連絡をとりあった。元禄15年(1702年)2月、江戸急進派の鎮撫のため吉田兼亮とともに江戸へ下る。田口三介と変名して吉田とともに新麹町に借家を借りて潜伏した。8月に京都へ戻り、大石良雄に江戸の状況を報告。10月、大石に同行して江戸へ下った。江戸に着くと、三浦十右衛門と変名して石町三丁目に潜んだ。
12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属して屋外の守りについた。その際に敵と激しく斬り結んだが泉水に叩き落され、味方が駆けつけ危ういところを救われている(この相手は山吉盛侍ともいわれる[6])。また、泉水に落ちたときに左股に深手を負い、引き上げの際には駕籠に乗せられている[7]。
武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、細川綱利の屋敷にお預けとなる。元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により切腹。享年34。墓所は泉岳寺で戒名は、刃随露劔信士。
後史
提出された「親類書」には妻子なしとある。甥(奥田行高の子)・仁尾清十郎は徳島藩士となるが、家中と敵対して心労もあり24歳で早世。異母妹・お百も実子なく、近松・仁尾家の血統は絶えている。異母弟のうち文良は出家して谷中・長福寺の和尚になったという。
備考
創作
遺品
- 近松家伝来大槍 - 赤穂大石神社・義士史料館所蔵[9]。
