通信国
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通信国と通商国
朝鮮使節
琉球使節
オランダ商館長の江戸参府
オランダは「通信国」に該当せず、正式な国交は無いという位置づけであった(通商国)。幕末の弘化元年(1844年)にオランダ国王ウィレム二世から開国を勧める親書を受け取ったさい、翌弘化2年6月に阿部正弘ら老中連署の回答書に「日本は国法により通信は朝鮮と琉球に限られ、通商はオランダと支那に限られているので(略)オランダと通信を行うことはできない」「今後はこのような書簡を差し出すことは絶対しないよう、もし手紙を出しても開封しないで返送する」主旨を記述している。
しかしオランダは日本商館を平戸に設置した当初から非公式な使節を幕府に派遣しており、「(カピタン)江戸参府」の名で知られている。ここでは長崎の出島に駐在していたオランダ商館長(カピタン)が江戸に参府しオランダ風説書を提出することが義務付けられていたが、その費用はすべて幕府側の負担であった。1609年(慶長14年)から1850年(嘉永3年)まで合計166回行われた[5]。
謁見・引見・御目見得・御覧
それぞれの外交使節との交接について、幕府ではその格式により謁見・引見・御目見得・御覧を使い分けた。室町時代には明との通交があり、室町殿は自邸で明使節を接遇しており、このさいには「謁見」と表現されていた。一方でこの時期の朝鮮使節は自邸ではなく寺院などで接遇されており、これは「引見」と表現した。江戸幕府になり支那国との通信は無くなり、朝鮮通信使に対しては江戸城での接遇を「謁見」と表現するようになる。琉球使節に対しては形式的には通信国(異国)からの使者として扱うものの事実上は島津藩の支配下にあり「幕藩体制の中の異国」(紙屋敦之)の格式をもって「御目見得」(大名・旗本相当)と表現した。オランダ商館長の江戸参府については謁見や引見、あるいは拝謁などとも表現されず「阿蘭陀人御覧」と表現された。