逢蒙

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逢蒙(ほうもう、拼音: Féng Méng)は、中国神話に登場する人物。羿(げい)の弓射の弟子兼家僕である。別名は逄蒙、蓬蒙、龐蒙、厖蒙、蠭蒙、逢門、蠭門、蜂門、逢門子。逢氏は『路史』夷羿伝によると炎帝の末裔[1]であるとされるが、『路史』国名紀では黄帝の末裔という[2]

弓の技を羿に学び、その弓術の全技を習得する。自らが天下一の弓の名手になろうと考え、羿を射殺しようとするが失敗。しかし後に桃棓(の木の棒)で撲殺することに成功し、羿を殺害してしまう[3]。この事件が、桃の木が邪気(悪鬼)を払う力を持つという民間信仰の起源となった[4]。さらに、身内に裏切られることは「逢蒙殺羿[5](ほうもうさつげい)」として語り継がれるようになった。

荀子』正論篇には「羿と逢蒙はともに天下の善射者である」と記されている[6]。また、『呂氏春秋』有始覧には「逢蒙は始め甘蠅に習う」との記述がある[7]。別の師である甘蠅(かんよう)は羿と同様に弓の名人として知られる古代中国の伝説の人物である。なお、逢蒙には鴻超(こうちょう)という弟子がいる[8]

墨子』非儒篇と『呂氏春秋』審分覧には「羿は弓作りの祖」[9][10]とされ、『世本』作篇には「逢蒙は射法の祖」[11]とされ、射術を人間界にもたらした第一人者と位置づけられる。『漢書芸文志には『逢門射法』二巻が収録されているが、既に散逸した。

古代の神々や人物を上上から下下までの九つに分類した『漢書』古今人表では、后羿や玄妻后夔などと同じページに逢門子(ほうもんし)という名で「下の中」に分類されている。少なくとも班固は逢蒙をの時代に実在した人物として認識していたことがわかる[12]

伝承

『夏商野史』(の歴史小説)では、逢蒙はもと東海の勇者であり、東夷部族との戦いの中で羿に感化され、弟子となった[13]。一方、『七十二朝人物演義』(明の話本小説)では、逢蒙は家生子(家僕の子供)の出身であり、羿の寵愛を受けてその弓術を模す機会を得たとされる[14]

『芸窓私志』(『重較説郛』巻31に収録、『淵鑑類函』巻431・兔2にも載せる)に引かれている伝承では、羿がとても大きなウサギを捕まえるが、そのウサギは巴山の神・鵷扶君(えんふくん)の化身であり、夢の中でその神は羿に対して「なぜ我を辱めた、逢蒙の手をかりる」と告げたという。羿が逢蒙によって殺害されたのは次の日であったという[15]

羿の結末には、『淮南子』の「近距離で弓を引く暇なく桃の木に討たれた」伝承[16]、『楚辞』の注や『夏商野史』の「逢蒙が不意打ちの矢で殺した」伝承がある[17]。また『春秋左氏伝』『路史』では、羿の遺体は家僕によって烹煮され、逢蒙もその家僕の一人とされる[18]

なお、魯迅の『故事新編』と袁珂が編纂した説話集は、『夏商野史』及び甘蠅の弟子の物語に基づき、羿が齧鏃法(げつぞくほう)を用いて、闇から放たれた逢蒙の矢を口で受け止めた。技の差を示せば弟子の殺意を断つだろうと思い、追及せず、かえって悲劇の伏線となった[19]

夏商野史

東海の勇者

東夷は羿との戦いに敗れ、東海の勇者を自称する逢蒙を援軍に招いた。羿は笑い、「かつて東海で九つの日を射落とし、扶桑を訪ねた折、無数の奇鳥・異獣・神魚・怪鱉を見たが、お前の名は聞かぬ。海穴に隠れていたか」と言った。激怒した逢蒙が射始めた。羿は指と歯の隙間で逢蒙の放つ全ての鏃じりを挟み止め、矢の尾羽を彼目がけて弾き返した。逢蒙は羿の技を「神人の射術」と讃え、自ら師事を願い出た。孤独を感じる羿も、弟子の相伴を望んでいた。

七十二朝人物演義

家生子の出身

夏王朝の夷羿(后羿)は、偃羿(えんげい)とも呼ばれ、弓の名人・楚弧父の弟子であり、夏の第3代帝・太康の臣下として、有窮国の君主に封ぜられた。羿は家生子(家僕の子供)である逢蒙を随身させた。彼は幼いながらも聡明で、羿の寵愛を受けた。逢蒙は12歳で、羿の弓矢を受け持つ童子となった。15歳の少年となり、初めて密かに弓矢を用い、羿の射術を模した。羿は逢蒙の失態を発見したが、その天賦の才を見抜き、責めなかった[20]

兵法の師

ある日、逢蒙が書斎で弓矢の手入れをしていると、羿が暗君と化した太康を廃せず躊躇うのを耳にした。逢蒙は「太康が狩りに耽り洛水の南岸に滞留する隙に、羿が北岸を固めて帰還を阻み、夏の王都を占拠すべし」との戦策を献じた。羿は逢蒙の進言に従い、兵を用いずに王権を奪取した。これにより逢蒙は羿の兵法の師と称された。喜んだ羿は官職を授けようとしたが、逢蒙は養育の恩に報いるのみと辞退し、代わりに射術の伝授を望んだ[21]

射術の修行

羿は飛衛(甘蠅の弟子)の修行法に似た方法を用い、逢蒙に遠くのの葉を段階的に見極めさせた。羿の指導により、逢蒙はついに百歩先の柳の葉を見極めて射抜くことができ、百発百中の技量を身につけた。無数の競射の末、逢蒙は驕慢になり、自らを羿と肩を並べると考えるようになった。しかし、の左目を射るという賭けにおいて、逢蒙は右目を射てしまい、羿は「毫釐の差は千里の誤り」と指摘した。逢蒙は心に恥を抱き、「あの人がいなければ、自分こそが天下一の弓人」と思うようになった[22]

陰謀の酒宴

夏の王都で、羿は賢臣を遠ざけ、讒言を好む寒浞(かんさく)を信任した。寒浞は密かに羿の権力奪取を企み、幾度もの酒宴で逢蒙を内通者させようと近づいた。寒浞は彼の悩みを見抜き、「主君を殺せば、君が天下一の英雄だ」と煽った。計画が始動すると、寒浞は羿に狩りの素晴らしさを語り、山狩りに誘い出した。その時、逢蒙が寒浞の反乱を密告し、羿は自ら逢蒙に兵を率いて平定に向かうよう命じた。軍隊の指揮権を握った逢蒙は、ある日の酒宴で羿を酔わせ、深夜に寝所で暗殺した[23]

脚注

関連項目

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