解剖学における方向の表現
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方向を定める意義と方向の基準
動物の器官や付属肢などの位置関係を正確に伝えるためにはまずどの状態を基準にするか、を定義する必要がある。これは動物は姿勢によって体の向きが変わったりそれに応じて付属肢の向きも変化しうり、基準を設けなければ同じ個体でも姿勢によって用語の意味が変わってしまう虞があるためである[1]。その定義として用いられる体位を解剖学的正位(かいぼうがくてきせいい、英語: anatomical position)または解剖学的体位(-たいい)[2]と呼ぶ[3]。動物によって中枢神経軸の違い[4]や対称性の明らかな違い[5]があるため解剖学的正位は異なって定義されうり、それに従って異なる用語が用いられることもある[6]。
ヒトの解剖学的正位は顔が前を向いて直立した状態で腕を側方に置き、掌を前に向けた状態を指す[1][7]。四足歩行の動物では四肢を全てを地に付け、顔を前に向けた状態を指す[8]。魚類では腹側を下とし、付属肢が自然な状態を指す[9]。
解剖学的正位を基準とした方向の用語については文脈によって意味が変わり得る用語もあるが、一般的には統一された解剖学用語が用いられる。これは生物学・医学系の科学者、獣医師、医師、解剖学者など異なる背景の人々が正確に体や臓器の情報について伝えるためである。これらの用語は基本的に英語で表す場合は意味が変わることがないように現代は使われない古代ギリシア語や古ラテン語を基としている[10]。解剖学用語の国際標準はヒトではTerminologia Anatomica が用いられる。神経解剖学用語はTerminologia Neuroanatomica 、発生学用語はTerminologia Embryologica で定められており、一部が解剖学用語と重複する[11][12]。動物においては解剖学・発生学に対応するものにそれぞれNomina Anatomica Veterinaria、Nomina Embryologica Veterinariaがある[13]。なお、日本においては日本解剖学会が編纂する『解剖学用語』の語彙が伝統的に用いられており[14]、本項目でも日本語表記は基本的には当用語集の表記に則る。
主な方向の用語
上・下
ヒトの解剖学的正位において、上(英語: superior)や頭側(とうそく、英語: cranial)は上、すなわち頭に近い方向を指し、下(英語: inferior)や尾側(びそく、英語: caudal)は下、すなわち足に近い方向を指す[1]。例えば、縦隔はその位置により上縦隔と下縦隔に分類される[15]。また、中脳に存在する上丘と下丘も上・下により方向が示されている例の一つである[16]。二足歩行でない一般的な動物では眼や眼瞼、唇、内耳など以外では上・下といった表現はふつう使わず、背側・腹側の表現を用いる[6]。逆に、ヒトでいう上・下を二足歩行でない動物で表したいときは頭側・尾側を用いる[17]。
前・後
前(英語: anterior)は解剖学的正位から見て前側を表すのに、後(英語: posterior)は解剖学的正位から見て後ろ側を表すのに用いる[18]。例えば、魚のえらは眼の後、尾の前、という風に表現できる。四足歩行の動物では身体全体を見たときは頭側・尾側という表現が使われるが、頭の構造を指し示すためには前・後も使われる[19]。
背側・腹側
四足歩行の動物において使われる背側・腹側といった用語はヒトの解剖学でも使われ、主に神経解剖学や発生学といった分野において用いられる[18]。
背側(はいそく、英語: dorsal)は後ろ側、または上面という意味であり、ヒトでは舌の表側を指す舌背、手の甲を指す手背、足の上面(足の甲)を指す足背などに使用例がある。なお、頭蓋での場合は背側とは上側を指して用いられる[20][16]。
腹側(ふくそく、英語: ventral)は背側とは反対に前や下面を指す[20]。
右・左
いわゆる、右(みぎ、英語: right)と左(ひだり、英語: left)である。ただし、解剖学的正位の図を見た場合、図の左・右側と図に写っているヒトや動物の左・右が逆になることに注意する[17]。
外側・内側
外側・内側という用語は身体を左半分と右半分に分ける正中面という便宜上の面(後述)に対して相対的に近いかどうかを指す用語である[4][18]。外側(がいそく、英語: lateral)が正中から離れた方を指す用語で、左外側、右外側などと左右をつけて表現することもある。内側(ないそく、英語: medial)は反対に正中面へ近い方のことである[18]。例えば、腓腹筋には内側頭と外側頭という成分がある[22]。
対側・同側・両側・片側
左右を使わずに相対的に位置を表す表現に以下のようなものがある。
- 対側(たいそく、英語: contralateral)はある部分に対して左右が反対側にあることを意味する[23]。例えば、脊髄視床路は脊髄で対側に移る、という風に書ける[24]。
- 同側(どうそく、英語: ipsilateral)はある部分に対して左右が同じ側にあることを意味する[23]。例えば、連合線維は同側の大脳皮質を結ぶ線維である、という風に書ける[25]。
- 両側(りょうそく、英語: bilateral)は身体の左右両側にわたってあることを意味する[23][16]。例えば、腎臓は脊椎の両側にある、という風に書ける[26]。
- 片側(へんそく)または一側(いっそく)(英語: unilateral)は身体の左右の一方にあることを意味する[23][16]。例えば、一側性難聴は左右どちらかの耳のみが障害されていることを示す[27][28]。
外・内
外側・内側とは異なる概念として外・内がある。外(がい、英語: external)が身体の中心から離れていることを意味し、内(ない、英語: internal)は身体の中心から近いことを意味する[17]。一見、外側・内側と同様の使い方ができるようにも見えるが、頭蓋腔の中に入る内頸動脈と顔面に分布する外頸動脈は総頸動脈から分岐してすぐの部分は内頸動脈が外側、外頸動脈が内側に位置しているという例がある[29]。
近位・遠位
近位(きんい、英語: proximal)と遠位(えんい、英語: distal)は体の中心からそれぞれ近いのか、離れているのかを指すときに用いられる[17][30]。体の中心は胸や心臓の場所のことが多い[31]。例えば、指節間関節は掌に近い方を近位指節間関節、指の先に近い方を遠位指節間関節という[32]。近位・遠位に側や部などを付ける場合もあり、例えば盲腸よりも近位側が回腸である、という風に表現できる[33]。
吻側・頭側・尾側
頭側・尾側については既に説明したが、ヒトにおいては吻側(ふんそく、英語: rostral)が他の四足歩行の動物に比べてやや特殊な使われ方になっている。まず、頭側は頭部方向を、尾側は尾の方向を(ヒトでは足の方向)を意味する[17]。一方で、吻側は頭部の中でも口や鼻の方向を示すのに用いられる[34]。そのため、脳の場合は前頭葉が吻側となる[16][18]。
これらの用語はヒトの医学においてはあまり用いられず、獣医学でよく使われる[35][36]。例えば、ウマでは眼は鼻より尾側にあり、後頭部より吻側にある、といった風に書ける[6]。ヒトは四つ這いになっても鼻が先端になるような姿勢は自然でないので「吻側」という用語を使うのは稀だが、使われることはある[37]。発生学や神経解剖学の分野で使われ、尾側が対義語として使われる[4]。吻側・尾側の軸となる吻尾軸はヒトにおいては前頭部から尾にかけて曲がりくねっており、この屈曲より吻側では顎の方向を指すとき、つまり下を腹側、頭頂部の方向を指すとき、つまり上を背側と呼ぶこともある[38]。
深・浅
深・浅はある構造が体表からどのくらいの距離にあるかを示す用語である[17][4][39]。
深(英語: deep)は体表から遠いことを表す[39]。例えば、内腹斜筋は外腹斜筋よりも腹部の深層にある、という風に書ける[40]。深の英語である"deep"は数少ない古英語を由来とする単語であり、ラテン語を由来として書くならばラテン語: profundus の英語 profound となる[6]。浅(英語: superficial)は体表に近いことを意味する[6]。例えば、胸部において外肋間筋は内肋間筋よりも浅層にある、という風に書ける[41]。深と浅の中間の位置を指したいとき、中(英語: intermediate)を用いることもある[23]。
歯の用語
骨学や古生物学、歯学といった領域では口や歯を表すときに専用の用語を用いている。これは歯が顎の骨に対しては整列しているものの、歯が捻転した状態では位置関係が前なのか外側なのか分からないというような曖昧な状況が生まれ得るためである[42][43]。例えば正中面に対する相対的な位置関係により内側・外側が使われるのに対して、歯列弓の正中からの位置関係により近い方を近位または近心(英語: mesial)、遠い方を遠位または遠心(英語: distal)という[44][45]。歯よりも内、つまりは舌がある方向に向かうときは舌側(英語: lingual)といい、上顎の歯では舌よりも口蓋に近いため口蓋側(英語: palatal)ともいう[44]。反対に歯よりも外、つまりは頬や唇に近い方向に向かうときは前歯では唇側(英語: labial)、臼歯(奥歯)では頬側(英語: buccal)という[44]。
歯の中である部位から見た方向を指す用語もある。歯の先端(切縁)と歯根の先端(根尖)を指す用語は切縁側(英語: incisal)と根尖側(英語: apical)であり、歯のいかなる場所でも基本的方向は同じである。しかし、歯冠側、歯頸側、歯根側といった用語は場所によって方向が反対になる。例えば歯根から見れば歯頸側は切縁側であるが、歯冠から見れば歯頸側は根尖側である[44]。
手足の用語
いくつかの解剖学用語は手や足に特有である[4]。これは掌と手の甲のどちらが前でどちらが後ろか、のような混同を防ぐために用いられる。解剖学的に正しいのは掌(手掌)の方を表す場合に前、手の甲(手背)を表す場合に後とする定義である。しかし、前腕の回内・回外という運動によって掌は前にも後ろにも向けることができる。混同せず明確にするために掌の方であるときは掌側(しょうそく、英語: palmar)、手の甲の方であるときは背側(はいそく、英語: dorsal)が用いられる[46]。例えば中手骨と中手骨との間にある骨間筋は掌側のものは掌側骨間筋、背側のものは背側骨間筋と呼ぶ[47]。
ヒトにおいては、掌側の英語は"palmer"であるが英語では"volar"という言葉も同様の意味で用いることができ、これは足の足底側を意味する底側(ていそく、英語: plantar)にも用いることができる[48]。ただし、"palmer"は手掌にのみ、"plantar"は足底にのみ用いることができる[48][49] 。 手足の前・後に特別な用語があるように、手足の内側・外側に関しても骨の名前を用いた専用の用語がある。前腕においては橈骨に近い側、すなわち解剖学的正位では外側にあたる方を橈側(とうそく、英語: radial)といい、尺骨に近い側、すなわち解剖学的正位では内側にあたる方を尺側(しゃくそく、英語: ulnar)という[50]。橈骨・尺骨どちらも関係するような解剖学的構造に対しては橈尺(とうしゃく、英語: radioulnar)と複合した語が用いられ、手首の関節の一つを構成する遠位橈尺関節などに使用例が見られる[51]。同様に下腿においては脛骨側(解剖学的正位では内側)を脛側(けいそく、英語: tibial)、腓骨側(解剖学的正位では外側)を腓側(ひそく、英語: fibular, peroneal)という[50]。
回転の方向
前傾(ぜんけい、英語: anteversion)と後傾(こうけい、英語: retroversion)はある位置に対して相対的に前に傾いていること、後ろに傾いていることをそれぞれ表す用語である。特に、子宮の傾き具合を表す際に用いられる[52][53]。
複合語
解剖学用語には一つ一つの単語を組み合わせて作られるものがある。方向を表す用語にも2つの軸成分を持つ方向やある場所を起点とした方向を表すために組み合わせた用語が用いられる。例えば、上外側は上と外側の組み合わせであり、ヒトでは頭側かつ正中から離れていることを意味する[23]。
放射線医学においてはX線撮影の用語にX線が体内に放射される方向を解剖学用語の複合語で表現するものがある。前から後ろへ向かってX線を放射する場合はanteroposteriorよりAP撮影、後ろから前へ向かってX線を放射する場合はposteroanteriorよりPA撮影と略される[55]。
修飾語
接頭辞として使われるものには以下のようなものがある[56]。
- sub-(下) - 何かの下にあるときに使われる[56]。例えば、顎下腺の英語"submandibular gland"などに見られる[57]。
- hypo-(下) - 何かの下にあるときに使われる[56]。例えば、舌下神経の英語"hypoglossal nerve"などに見られる[58][注 1]。
- infra-(下) - 何かの中にある、または下にあるときに使われる[56]。例えば、眼窩下神経の英語"infraorbital nerve"などに見られる[60]。
- inter-(間) - 何かの間にあるときに使われる[56]。例えば、室間孔の英語"interventricular foramen"などに見られる[61]。
- super-、supra-(上) - 何かの上にあるときに使われる[56]。例えば、視交叉上核の英語"suprachiasmatic nucleus"などに見られる[62]。
- ante-(前) - 何かの前にあるときに使われる[56]。例えば、前腕筋膜の英語"antebrachial fascia"などに見られる[63]。
- pre-(前) - 何かの前にあるときに使われる[56]。例えば、交感神経系の節前線維の英語"preganglionic nerve fibres"などに見られる[64]。
- post-(後) - 何かの後ろにあるときに使われる[56]。例えば、交感神経系の節後線維の英語"postganglionic nerve fibres"などに見られる[64]。
- retro-(後) - 何かの後ろにあるときに使われる[56]。例えば、下顎後静脈の英語"retromandibular vein"などに見られる[65]。
- ab-(離れて)、ad-(向かって) - 何かに離れている、向かっているときにそれぞれ使われる[56]。例えば、運動を表現するときに使われる外転・内転の英語はそれぞれ"abduction"・"adduction"であり、正中から離れているか向かっているかを指している[17]。
接尾辞として使われるものには以下のようなものがある。
身体の基準平面・軸
平面

解剖学においては方向を表すときに3つの便宜的な平面が基準として用いられる[7]。画像診断や発生学、運動などの分野に特に有用である[68]。3つの便宜上の平面を以下に説明する。
- 体を左右に分けるような平面を矢状面という[3][6][16]。なかでも中央に位置し、身体を左半分と右半分に分けるような矢状面を正中面または正中矢状面[37]という[3]。正中面上には頭部、脊髄、へそ、尾などが通る[69]。
- 体を腹側と背側に分けるような平面を冠状面または前頭面という[3][7]。ヒトにおいては身体を前後に分ける[3]。四足歩行の動物においては腹側と背側に分ける点においては同じであるが平面の位置が変わり、また名称も背断面という[19][5][70]。
- 以上の2つの断面どちらにも直交するような断面を横断面または水平面、軸平面という[3][2][7]。
矢状面や横断面が体表と交わった線は位置を示す線として用いられることがある。体幹部の横断面は臨床上用いられることがあり、幽門平面や肋骨下平面、臍平面などがある[71]。
体軸

脊椎動物の体軸は胚発生の段階のうち、原腸胚形成のころに明確となり[72]、方向に基づいて体軸が命名される。左右対称の動物(左右相称動物)では3つの軸は互いに直交しており、左右、頭側・尾側、腹側・背側を結ぶ軸の3つから成る[72][5] 。
左右相称動物の体の前後を走る軸を頭尾軸(とうびじく、英語: craniocaudal axis)または単に前後軸(ぜんごじく、英語: antero-posterior axis)[注 3]、もしくは縦軸(英語: longitudinal axis)という[74]。体軸の中でも最も基本的となる軸は主軸と呼ばれるが、頭尾軸は左右相称動物において主軸となる[75]。
頭尾軸と直交し、左右相称動物の腹側と背側を結ぶ軸を背腹軸(はいふくじく、英語: dorso-ventral axis)または矢状軸(しじょうじく、英語: sagittal axis)、厚軸(こうじく、ドイツ語: Dickenachse)という[76]。頭尾軸と背腹軸はどちらも正中面に存在する[77]。
正中面と直交するもう一方の体軸を左右軸(さゆうじく、英語: left-right axis)[78]、横軸(英語: transverse axis, horizontal axis)[77]という。正中面のある一点から外側へ向かう方向を特に指したいときは正中側面軸や内外軸(英語: medio-lateral axis)ともいう[77]。
円形の動物や非対称な動物などは異なった軸で扱われる[5]。放射相称の動物では口を通る軸を主軸とし、これを上下軸という[75]。主軸とは直交し、その生物を放射対称にできる軸を放射軸(英語: radial axis)という。生物によって放射軸の数は異なっており、例を挙げると棘皮動物のヒトデは放射軸が5個、有櫛動物のクシクラゲは放射軸が2個である[77]。