鄚玖
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生涯
広東省雷州府海康県黎郭社に生まれる[4]。清朝の海禁政策の影響を受けて1671年に中国を離れ[4]、プノンペンに住んだ後ジャワやフィリピンへと旅をする[5]。その後、カンボジア王の援助を受け、バンテアイ・メアスへと移民し、華人のコミュニティの指導者となる[6]。またカンボジアから、この地方を統治する「オクヤー(屋牙、oknha)」の地位を得て、賭博場の運営、銀山の開発、村落の形成などの開拓事業を行った[4]。1700年には河僊(現在のキエンザン省ハティエン)[† 2]に、華人に「港口国」として、ヨーロッパ人に Canca、Peam、またはPontomeas として知られた半独立国を築いた[7]。なお、ハティエンの街はもともとクメール人によって港、河口、埠頭を意味する(ローマ字転写:Piem もしくは Peam)と呼ばれていた[8]。
後に彼はベトナムの阮氏広南国と同盟するようになった[9]。1708年には広南国へ朝貢の使いを送り、見返りに河僊総兵(Tổng binh Hà Tiên)の称号を得る。死後は息子の鄚天賜がその地位を継ぐ。鄚天賜は中国の詩文を愛し、港口国を反清を掲げる明朝遺臣のよき亡命先ならしめた[10]。鄚氏一族の支配域はフーコック島からカマウ半島にまで及んだが[1]、キン人の南進により広南国に併合され、1800年代には阮朝の領域となった。
墓はハティエンのビンサン山にある。キエンザン省では地元の英雄として親しまれ、彼の名を冠した道路が多くの街に存在する。
姓氏
家族
彼の家系については漢文資料である「河仙鎮葉鎮氏鄚家譜」に記録が残っている。
ビエンホア出身の女性との間に生まれた息子の鄚天賜(マク・ティエン・トゥー、Mạc Thiên Tứ)は鄚玖の事業を継いで河僊総兵となり、広南国によるカンボジア侵略に大きく関わった(阮福濶の項を参照)。娘のマク・キム・ディンは、ベトナム南部に亡命した明朝の遺臣の陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên)と結婚している[9][5]。
