鄧析
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人物
鄭国に仕えたが、政争のなかで殺された。ただし、殺されるに至った経緯が、史料によって二通り伝わる[3]。
- 紀元前536年、鄭国の宰相子産が、中国法制史の画期となる成文法「刑鼎」を公開した[3]。鄧析はそれに反対して攻撃活動を展開した。すなわち、民に裁判の方法(後述)を有償で教えることにより、鄭国に訴訟を氾濫させて混乱をもたらした[3]。それを受けて、子産は鄧析を誅殺した[4]。(『呂氏春秋』離謂篇など)
- 紀元前501年、鄧析は鄭国で「竹刑」(刑書の題名と推定される)を立案した[3]。ところが、政治家の駟歂が「竹刑」に反対して鄧析を誅殺した[3]。しかし結局「竹刑」は採用された[5](『春秋左氏伝』定公九年)。
宇野精一は、銭穆『先秦諸子繋年』を参考にして、実際に鄧析を殺したのは駟歂だが、後世の伝承において、より著名で音が近い子産と混同されたのだと推定している[6]。
『呂氏春秋』離謂篇によれば、鄧析が民に教えた裁判の方法とは、主張の「是・非」「可・不可」のいずれをも押し通す方法や、永遠に結論が出ない議論の方法だったという[2]。『列子』力命篇では、そのような方法を「両可之説」「無窮之辞」と表現している[7][1][2]。
『荀子』は複数の篇(不苟篇・非十二子篇・儒效篇)で、鄧析を恵施(名家の中心人物)と併称した上で、「卵有毛」(卵には毛がある)などの奇怪な説を操る者達、あるいは「礼」にそむく者達として非難している。
鄧析の同時代人である孔子は、鄧析と対照的に、訴訟が一切起こらない社会を目指していた(『論語』顔淵篇「必也使無訟乎」)[2]。