鄧析

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鄧 析(とう せき、拼音: Dèng Xī簡体字: 邓析、生年不詳 - 紀元前501年[1])は、中国春秋時代末期の政治家・思想家。著作として『鄧析子』(とうせきし)が伝わる。

諸子百家名家または法家雑家に分類される。その人物像から「初期名家」「名家の先駆者」のように位置付けられることもある[2]

人物

鄭国に仕えたが、政争のなかで殺された。ただし、殺されるに至った経緯が、史料によって二通り伝わる[3]

  1. 紀元前536年、鄭国の宰相子産が、中国法制史の画期となる成文法「刑鼎」を公開した[3]。鄧析はそれに反対して攻撃活動を展開した。すなわち、民に裁判の方法(後述)を有償で教えることにより、鄭国に訴訟を氾濫させて混乱をもたらした[3]。それを受けて、子産は鄧析を誅殺した[4]。(『呂氏春秋』離謂篇など)
  2. 紀元前501年、鄧析は鄭国で「竹刑」(刑書の題名と推定される)を立案した[3]。ところが、政治家の駟歂中国語版が「竹刑」に反対して鄧析を誅殺した[3]。しかし結局「竹刑」は採用された[5](『春秋左氏伝』定公九年)。

宇野精一は、銭穆先秦諸子繋年中国語版』を参考にして、実際に鄧析を殺したのは駟歂だが、後世の伝承において、より著名で音が近い子産と混同されたのだと推定している[6]

『呂氏春秋』離謂篇によれば、鄧析が民に教えた裁判の方法とは、主張の「是・非」「可・不可」のいずれをも押し通す方法や、永遠に結論が出ない議論の方法だったという[2]。『列子』力命篇では、そのような方法を「両可之説」「無窮之辞」と表現している[7][1][2]

荀子』は複数の篇(不苟篇・非十二子篇・儒效篇)で、鄧析を恵施名家の中心人物)と併称した上で、「卵有毛」(卵には毛がある)などの奇怪な説を操る者達、あるいは「」にそむく者達として非難している。

鄧析の同時代人である孔子は、鄧析と対照的に、訴訟が一切起こらない社会を目指していた(『論語』顔淵篇「必也使無訟乎」)[2]

鄧析は「訟師」の先駆とも言われる[8]

史料

『鄧析子』

現行本の『鄧析子』は「無厚篇」と「転辞篇」の二篇からなる。偽書説や成立年代については諸説ある[10]

別録』の叙録がある[11]。『漢書芸文志は、『鄧析子』ではなく『鄧析』二篇と表記した上で、名家の書物に分類している[4]。一方で『郡斎読書志』は『鄧析子』二巻を名家に分類しつつ、法家も兼ねる書物だと述べている[12]。他方で『四庫提要』は『鄧析子』一巻を法家に分類している[4][12]

脚注

関連文献

外部リンク

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