1132年(天会10年)、劉豫により潁昌府陽翟県に潁順軍が置かれた。
1182年(大定22年)、金により潁順軍は鈞州と改められた。鈞州は南京路に属し、陽翟・新鄭の2県と郭店鎮を管轄した[1]。
元のとき、鈞州は汴梁路に属し、陽翟・新鄭・密の3県を管轄した[2]。
1369年(洪武2年)、明により陽翟県は廃止され、鈞州に編入された。1575年(万暦3年)、万暦帝朱翊鈞の諱を避けるために鈞州は禹州と改称された。禹州は開封府に属し、密県1県を管轄した[3]。
清のとき、禹州は開封府に属し、属県を持たない散州となった[4]。
1912年、中華民国により禹州は廃止され、禹県と改められた。