鉢の木会
日本の文学者による私的サークル
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「鉢の木会」名前の由来
謡曲「鉢木」は、北条時頼の廻国伝説に基づくもので、旅の僧が上野国佐野で大雪のために一夜泊めてくれと頼むと、佐野源左衛門常世は承諾し、貧しいながらも粟の飯を出し、鉢の木を火にくべてもてなした。その時に何かことある時は、鎌倉へ馳せ参じるつもりであると話す。後日、鎌倉より招集があり常世が駆けつけると、時頼はあの時の僧は自分だったと明かし、鉢の木のもてなしに報いる。その話のように、その月の当番は常世のようにもてなすというところから来ている[2]。
ともすれば、寝食を忘れてでも仕事に明け暮れてしまう当時の風潮(戦後復興の最中)へのささやかな反抗でもあったという。なお、中村光夫の句に「鉢の木の燃え残りたる夜寒かな」がある。
『聲』の発刊
メンバーの脱退
一番年少の三島にとっても先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは大きな自信になった。だがメンバーの一人、吉田健一から「お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな」と面罵される事件が起きた[要出典]。その後、吉田は三島に対して詫び状を作成、中村に添削を依頼するなどして、会への復帰を三島に依頼したが、「長期欠席」と穏やかな調子で和解を拒絶した[6]。
三島は吉田から酷評された長編『鏡子の家』に続いて、有田八郎元外相をモデルにした『宴のあと』を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。吉田は父茂の人脈で仲裁しようとしたが、結局三島を裏切り有田側に立つ発言を行い、2人は決別し、三島は脱会した。三島と中村はその後も共著を出すなど、各個人同士での交流はあった。
やがて三島と大岡はそれぞれ、演劇活動[注釈 2]、言論活動[注釈 3]をめぐり、福田とすれ違うようになったこともあって、三島だけでなく大岡の足も鉢の木会から遠のいた。最終的に、初期から参加していた吉田、中村、福田、吉川が会を存続させた[7]。1977年(昭和52年)5月、吉田が生前最後の英国旅行に出かける数日前にも開かれた記録が残る[7]。