間人
京都府京丹後市丹後町の地名
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名称
地理
歴史
教育

- 京丹後市立丹後小学校
- 京丹後市立丹後中学校
- 2014年(平成26年)4月に京丹後市立間人中学校と京丹後市立宇川中学校を統合して開校[9]。
- 京都府立網野高等学校間人分校
- 2020年(令和2年)4月に開校した京都府立清新高等学校に統合されて2022年(令和4年)4月に廃校となる予定。
施設
経済

漁業
間人の漁業史
中世末期、一色氏の武将・荒川武蔵守が城嶋の居城を構えて一帯を支配下とした際、住民に漁業振興を呼びかけ、延縄や一本釣りなどによりタイ、カレイ、イカを漁獲した[13]。その後近世の資料はまったく残されていないが、江戸時代ますます漁業が盛んになったことは想像に難くないと言われている[13]。江戸時代の間人は元高481石9斗8升を課せられた村であったところ、1681年(延宝9年)の大増税で772石8升4合と6割以上もの増税を受け、より一層漁業に励む必要性に迫られた[14]。元々の延縄漁によるタイやカレイ、一本釣りでのイカ漁に加え、サバやシイラも一本釣りで漁獲するようになり、地引網漁によるイワシ、イカナゴなどの漁が始まったのもこの前後の時代とみられる[14]。
明治時代に入っても間人の主産業は依然として漁業であり、明治の末期には約700名の漁師がいたという[15]。このうち、明治末期から大正初年の間人漁業組合が把握する漁業登録漁家は135戸、従業員は500余名だった[16]。1885年(明治18年)、中江清四郎なる人物を漁法研究のため隠岐に送り、大敷網を改良して落網として使用することで漁獲量を上げることができる新たな漁法を持ち帰らせると、上羽佐治右衛門との共同研究で改良を重ね、落網漁を完成させ間人漁業として定着した[17]。また、遠洋漁業にも取り組むようになり、1903年(明治36年)には1隻のフカ延縄船が韓国沿岸まで出漁した記録が残る[15]。とはいえ、間人漁業の中心は依然として浅海での釣漁であり、なかでも古来の代表的な漁業であったイカの一本釣は、出漁中の海上の夜景が観光名所にも数えられるほどだった[16]。
間人漁業のピークは明治期後半で、その後は機業への転換がすすんだ。第二次世界大戦直後にはまだ、底引網漁船が18隻あったが、その後のガチャマン景気と1963年(昭和38年)に丹後半島一周道路が開通したことに伴う民宿の激増が、漁業離れに拍車をかけた[18]。
現代
丹後半島の沖合は海岸線からわずか15kmで水深200mに達する急深な海底地形が特徴であり、ズワイガニの良い漁場となっている[19]。港湾としては間人漁港と小間漁港があり、間人漁港ではハタハタ・カニ・イカ類などが、小間漁港ではブリやイカ類などが漁獲される[20]。間人漁港で水揚げされたズワイガニの一部は間人ガニというブランドで出荷されている[21]。一般に市場で間人ガニと呼ばれるのは雄のみで、雌はコッペガニと呼ばれる[22]。2006年(平成18年)には特許庁の地域団体商標を取得している[23][24]。
工業
丹後ちりめんの産地である。
交通
名所・旧跡・観光スポット
- 三柱神社 - 村社。祭神は稚産霊神・倉稲魂神・保食神。
- 三嶋神社 - 城島にある神社。
- 龍雲寺 - 曹洞宗の寺院。貞享5年(1688年)に開創され、間人地区の大半を檀家とする。
- 立岩 - 竹野川河口にある岩。本土と砂州で繋がった陸繋島である[25]。聖徳太子の弟である麻呂子親王がこの岩に鬼を封じ込めたとの伝承が残る。山陰海岸ジオパークのジオサイト。
- 城島(城嶋) - 小間漁港近くの小島。室町時代の武将である荒川武蔵守の居城として伝えられる。城島公園として整備されている。山陰海岸ジオパークのジオサイト。
- 間人皇后・聖徳太子母子像
- 丹後温泉
- 後ヶ浜海水浴場
- 砂方海水浴場
- 間人けんか屋台祭り
- 三柱神社
- 三嶋神社
- 龍雲寺
- 立岩
- 間人けんか屋台祭り
- 立岩・後ヶ浜海水浴場

