闞沢
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生涯
貧農の家に生まれたが、苦学して優れた学識を身に付け、郷里において名を知られるようになった。孝廉に推挙されて銭唐県長となり、次いで郴県令を務めた。やがて孫権が驃騎将軍になると招聘を受け、西曹掾に任命された。
孫権の即位に伴い尚書となり、嘉禾年間には中書令に遷り、侍中を兼務した。嘉禾6年(237年)、孫和の講師となり、諸学や儀礼を教えた。赤烏4年(241年)孫権が闞沢に後漢の明帝の代に中国に仏教が伝来してから呉国に康僧会がやってくるまでの年月と儒仏道の優劣を問うと、闞沢は(最初に後漢の白馬寺に仏教が伝来してから康僧会が呉に来るまで)175年かかったことや仏教は伝わった当初から最も優れていたと答えた。孫権は闞沢のその答えを聞くと闞沢の博識に感心し,太子太傅に起用した[2]。 赤烏5年(242年)に孫和が皇太子に立てられると、太子太傅を兼務して引き続き孫和の教育にあたった。闞沢は孫和と孫覇の二皇子のため、諸学説を勘案し注釈を施したものを教科書として授けた。
また、この年に闞沢は自分の自宅を捨てて、自らの字を冠した仏教寺院の『徳潤寺』を建立したという説もある[3]。
諸学に通じた闞沢であったが、中でも暦数に通暁していた。当時、呉で用いられていた乾象暦(後漢末の劉洪が作成)は暦と実際の季節の間に誤差が生じていた。そこで闞沢は『乾象暦注』を著して修正を加えた。この結果、乾象暦の誤差は解消され、呉の滅亡に至るまで用いられた。この他にも朝議で経典の解釈が問題になると、孫権は必ず闞沢に諮問した。
これらの儒学者としての功績により、都郷侯に封じられた。
赤烏6年(243年)冬に死去。孫権はその死を悼み、数日に渡り食事を摂ろうとしなかった。
謙虚で慎み深く、一度も他人の短所を口にする事が無く、宮廷の小役人に対してさえも礼儀を尽くし接した。容貌は威厳を欠いていたが、その深い見識には誰も及ばなかった。
逸話
若い頃は学費を稼ぐために写本の請負をし、余った紙や墨を用いて勉学に励んだ。また写本のために借りた書籍は、返す頃には暗誦できるほど読み込んでいた。
魏の曹丕が後漢より禅譲を受けて帝位につくと、孫権は壮年の曹丕による治世が長きに亘るのを憂慮し、群臣に意見を求めた。これに対して闞沢は「丕という字は不と十から成っており、これは十年を経ずして死去する徴です」と答えてみせた。果たして曹丕は在位七年にして急死した(闞沢伝注引『呉録』)。
後に、専横を極めた呂壱が処分を受ける事になると、群臣の中には死罪は当然の事、火焙りや車裂き等の漢代に廃止された刑を持ち出す者もいた。これに対し、闞沢は「賢君の治世でそのような残虐な刑を復活させてはならない」と反対した。また、官庁の不正撲滅のため、禁令や監視を強めようとする意見が出ると、闞沢は礼と律に則るべきだと反対し、いずれも孫権の称賛を受けた。
あるとき、孫権から「世の経書や注釈、散文や韻文の中で最も優れたものは何か」と尋ねられたため、国家の治乱を知ってもらおうと考え、賈誼の『過秦論』を読むよう薦めた。
評価
三国志演義での活躍
参考文献
- 陳寿『三国志』
- 羅貫中『三国志演義』