隗純
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事跡
父の隗囂は、当初は光武帝陣営に属していたが、対立の末に蜀(成家)の公孫述に服従して朔寧王に封じられ、光武帝と抗争した。しかし、部下を切り崩され、要地も占領されるなど劣勢に陥り、最後は建武9年(33年)春正月に、冀城(天水郡)にて困窮し死去した。
隗純は父を後継し、やはり天水郡に拠って光武帝への抵抗を続けた。これを支える部下には王元・周宗・行巡・高峻・苟宇・趙恢らが健在で、しかも公孫述の部将である田弇・趙匡の援護もあったため、依然として漢にとって侮れない勢力であった。
これに対して光武帝は、同年秋8月に、中郎将来歙に、征西大将軍馮異・建威大将軍耿弇・虎牙大将軍蓋延・揚武将軍馬成・武威将軍劉尚を率いさせ、天水へと侵攻させた。両軍による戦いは、以後1年余りに渡って継続する。
建武10年(34年)夏、天水郡で趙匡が馮異に敗れ戦死したが、隗純らは、その後の漢軍による冀城への攻撃は何とか凌いだ。同年8月、第一城(安定郡高平県)を守備していた高峻が、力尽きて漢の寇恂に降伏した。そして同年10月、落門聚(天水郡冀県)で隗純は来歙に大敗し、部下共々ついにここで全面降伏した。ただ、王元のみが、蜀の公孫述の下へ逃れている。こうして隴右は漢により平定されたのであった。
後に建武18年(42年)、隗純は賓客と漢を逃亡。胡族と結び、武威郡に至るも捕縛され誅された。