韓浩
中国後漢末期の武将・政治家。司隷河内郡の人。後漢の万歳亭侯・中護軍。
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生涯
夏侯惇に見出される
後漢末の戦乱の中、故郷の県が山岳地帯に隣接していたため、韓浩は人を集めて盗賊から県を自衛した(『魏書』)。
後に王匡から従事に任命され、董卓を討つため兵を率いて孟津に出兵した[1]。董卓が、河陰県令であった妻の父の杜陽を人質にして韓浩を招いたが、彼は応じなかった。この話を聞いた袁術は韓浩の態度に感心し、韓浩を招いて騎都尉とした(『魏書』)。
その後、韓浩の名声を聞いた夏侯惇は彼との面会を要望し、韓浩を大いに評価した。夏侯惇は韓浩に兵を率いさせ、征伐に随行させた(『魏書』)。
興平元年(194年)、呂布との戦いで夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ夏侯惇を人質にした者に対し厳しい態度で臨み、夏侯惇には国法を守るため、見殺しにすることを涙ながらに詫び、そのまま攻撃を加えた。夏侯惇を人質にしていた者が叩頭して謝罪したが、韓浩は赦さずに斬り捨て、夏侯惇を救出した。この態度は曹操に称えられ、韓浩のやり方はそのまま法律として用いられた。以後、人質を使う者が後を絶ったという。
曹操の護軍として
建安元年(196年)、曹操が政治について議論を行わせた時、韓浩は棗祗と共に屯田を急いで行なうよう提言したため、曹操に喜ばれ護軍への昇格を果たした(『魏書』)。
韓浩は領軍の史渙と共に忠義と武勇によって名を挙げ、列侯に封じられた。
建安12年(207年)、曹操が烏桓を討つため柳城まで遠征しようとした時、史渙は遠征に消極的であったので、韓浩と相談し協力して曹操を諌めようとした。しかし韓浩は「殿が計画を発動する時、そこに遺漏は無い。私とあなたは中軍の指揮官なのだから、兵士の士気を削ぐ様な事をすべきではない」と逆に史渙を説得した。韓浩は曹操に随行して功績を立て、官号を中護軍に改められ、配下に長吏と司馬をつけることを赦された(『魏書』)。
建安20年(215年)、曹操が漢中の張魯討伐に遠征すると、韓浩もそれに従軍した。張魯を降伏させた後、諸軍を統括し漢中を鎮守する者として、智略に優れた韓浩を推す声が強かったが、曹操は「わしが護軍無しにはできぬ」と難色を示し、供に帰還した(『魏書』)。漢中の軍事は杜襲が統括することとなり、夏侯淵と張郃が守将となった。
曹操は韓浩を大いに信任していたので、彼が病死するとその死を惜しんだ。韓浩には子がなかったので、一族の韓栄が養嗣子として後を継いだ(『魏書』)。