韓琦
中国北宋の政治家・詩人・文学者
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経歴

天聖5年(1027年)、科挙に次席で及第(榜眼)し進士となり、具臣の弾劾による綱紀粛正や体量安撫使として四川の飢民約190万人の救済などに努めた[2][7]。館閣では同僚の王拱辰や葉定基が屢々口論を起こしていた一方で、韓琦はその中でも黙々と帳簿を熟読し、まるで聞こえていないかのような振る舞いをしていたという[9]。
景祐元年(1034年)、9月に開封府推官に、その2年後には度支判官に転じ、太常博士に任命された。そしてこの翌年に、右司諫に抜擢された[10]。
康定元年(1040年)、陝西帥臣に任命されると西夏攻撃を主張、遠征を試みるが、六盤山にて1万人の損害を出して失敗に終わる。翌年も范仲淹とともに西夏を攻撃するが、張元に大敗を喫し1万弱の軍勢が全滅するなどの失策があった(好水川の戦い)。
この敗戦を受けて、韓琦は范仲淹の戦略を受け入れ、彼と協力して西夏の防衛に当たった。二人の協力関係は「韓范」と称され[2][11]、両者は長らく国境防衛を担い、その名声は高く辺境の民は「軍中に韓有り、西の賊これを聞けば心胆寒し。軍中に范有り、西の賊これを聞けば胆を破る。」と謳った[12]。
慶暦3年(1043年)、枢密副使に就任、范仲淹・富弼などが推進する慶暦の新政に積極的に関与している。
嘉祐元年(1056年)、三司使に就任したが、開封に到着する前に枢密使に転じた[7]。
嘉祐2年(1057年)、蘇轍が進士に及第すると、当時枢密使であった韓琦に書簡を送り、今後の政策提携を打診している。この時の書簡が現在『上枢密韓太尉書』と称されるものである。
嘉祐3年(1058年)、宰相に就任する。英宗即位後は魏国公に封じられ[11]、神宗が即位すると司空・侍中として三公に列せられ、再び山陵使として英宗の葬儀を執り行った。英宗が永厚陵に葬られた後、韓琦は自ら辞職を申し出て、鎮安・武勝の節度使を兼任して相州に赴任した。のち、官職は司徒・検校太師・兼侍中に昇進した。韓琦はこれに対し、臣下としてこのような任命は未だ嘗てないとして辞退し、宋朝は淮南節度使・相州判官へと転じた。後に国境の事情によって、永興軍・大名府などに赴任した[13]。
また、元老の重臣として王安石の変法や契丹の領土割譲の要求などに終始反対し、神宗も一時的に考えを改めて「韓琦は真に忠臣である。私は新法で民を利すると考えていたが、まさか害を与えるとは。然も都市部に青苗がある訳でもないのに、官吏は無理に配っている」と語ったという[7][14]。
熙寧8年(1075年)、67歳で病死。尚書令を追贈され、忠献と諡された[2][3]。また徽宗の時、功績から魏郡王を追贈された。子孫は繁栄し、高官を輩出した[2]。
なお、朱熹はその著書である『三朝名臣言行録』の内一巻を全て韓琦に充てている。