越国
古代日本の地理区分
From Wikipedia, the free encyclopedia
表記
7世紀後半に書かれた木簡には高志とあり、古い時代にはこのように書かれたのであろう[1]。8世紀の諸書のうち、古い時代の表記を残す『古事記』は高志と記し[2]、『出雲国風土記』には古志とある[3]。『日本書紀』は古い時代の地方名として越(こし)・越洲(こしのしま)を記す[4]。
越の字は、高志国が分割され越前・越後などの国が生まれてから使われるようになったと考えられている。越の字が統一表記として採用されたのは、大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときで[5]、それまでは高志前国、高志中国、高志後国といった書き方もあったと考えられる。つまり、一つの国として存在した当時の書き方は高志国であり、越国は廃止後の表記ということになる。読みはどれも「コシ」である。
範囲
歴史
古くは古事記にて八岐遠呂智の出身地であったり、八千矛神が高志の沼河比売のもとに妻問いに行った神話が記され、出雲国風土記にも所造天下大神が高志の八口を平定した話や、高志人が出雲に来たことが記されている。
古くから交易や交流などはあったもののヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域であり、紀元前の孝元天皇の第1皇子、四道将軍の大彦命に平定される前の「高志」は諸豪族(豪族阿彦など)に支配されていたと推定されている。
『住吉大社神代記』によれば、「田田根足尼命」という神が、「古斯国の君に坐す」兒止移奈比女乃命を娶り、乎川女乃命、馬手乃命、口以乃命を生み、この3人は「古斯乃国君等に在」したという[8]。
『日本書紀』によれば欽明天皇5年(544年)12月、佐渡島に渡来する粛慎人のことが高志から朝廷に報告され、その後573年に高麗使人が高志の海岸に漂着、船が難破し多数の溺死をみたこと、翌年にも彼らの漂着が報告され、589年になると朝廷は阿倍臣を北陸道に派遣して越など諸国の境界を調べさせている[9][10]。また、この時代の高志国内の国造として、久比岐国造などが分立していた。
しかし、孝徳朝(645年~654年)になると、それまで木ノ芽峠(西端)から東進して弥彦山(北端)までだった越国が拡大された。蝦夷との境として647年(大化3年)に渟足柵が設けられて越国の北端となり、その後も磐舟柵、初期の出羽柵までと次第に北端は伸びていった[6]。越国守阿倍比羅夫が658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ったと伝わるなど、安定した西端(木ノ芽峠に近い地域)とは対照的に、北端(弥彦山以北)は陸奥国と同じく蝦夷への侵攻の最前線となった辺境地帯であった。
それまで国造などの現地勢力を通じて間接的に支配されていた越国は、大化の改新によりはじめて中央政府から国司が派遣される「国」として成立した[11]。さらに689年~692年(持統3~6年)大宝律令による令制国の設置に伴い、畿内に近い地域から順に、越前国、越中国、越後国の3国へと分割された。この後は3国それぞれの歴史を歩むこととなるが、「越州」の呼称は分割後も三国の総称またはそれぞれの国の別称として広く用いられ、3国は越州(えっしゅう)あるいは三越(さんえつ)と呼ばれることがある。さらに、越前国から能登国が、ついで加賀国が分立し、越後国の出羽郡が出羽国として分立している。
