高潤
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経歴
幼いころ高歓に「わが家の千里駒なり」と評された[1][2][3]。天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高潤は馮翊王に封ぜられた[5][6][7]。まもなく侍中・開府儀同三司に任ぜられた。東北道大行台尚書左僕射・定州刺史となった。刺史のまま都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた[4]。河清元年(562年)1月、尚書左僕射となった[8][9][10]。高潤の容姿は美しく、14、5歳で母の鄭妃と同衾し、不倫のことがあったと噂された。高潤は成長すると官吏の仕事を習いおぼえて、不正の摘発に力をそそいだ。王迴洛と独孤枝が官田を侵奪して賄賂を受けた事件を摘発して、武成帝に賞賛された[11][12][3]。太子少師となり、録尚書事を兼ねた。河清3年(564年)3月、司空に上った[13]。天統元年(565年)4月、司空に転じた[14]。天統2年(566年)10月、太尉に転じた[15][16][17]。天統3年(567年)8月、大司馬[18][19][20]。入朝して司州牧となった[4]。天統5年(569年)11月、太保[21][22][23]。河南道行台録尚書事を歴任した。武平2年(571年)9月、太師[24][25][26]。武平3年(572年)8月、太尉[27][28][29]となった。太宰をつとめ、再び定州刺史となった[30][31][3][32]。武平6年(575年)8月22日、病が高じて州館で死去した[32]。享年は30[33]。仮黄鉞・左丞相の位を追贈された[30][31][3]。諡は文昭といった。武平7年(576年)2月11日、鄴城の西北30里の釜水の南に葬られた[32]。