黒田治高
筑前福岡藩8代藩主。京極高慶の七男。従四位下、侍従、筑前守
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生涯
讃岐国多度津藩主・京極高慶の七男。母は高慶の側室で林代右衛門の娘・誓寿院[1]。幼名は又八。初名は京極高幸(きょうごく たかゆき)。京極家では「高」の字を通字に用いているので、黒田家に養子入りしてからも1か月ほどは改名せずに同じ諱で黒田高幸(くろだ たかゆき)と名乗っていた。その後に治高と改名する。
宝暦4年(1754年)5月28日、丸亀城にて生まれた[1]。天明元年(1781年)11月、福岡藩主・黒田治之の末期養子となる[1]。天明2年(1782年)2月2日、家督を相続した[1]。同年2月18日、将軍徳川家治に御目見した。同年3月7日、従四位下・侍従・筑前守に叙任し、養父・治之と同じく家治より偏諱を受けて治高と改名する[1]。同年3月15日、初めてのお国入りの許可を得る。同年5月、福岡に入り、領内の巡見や山笠見物などをした[2]。翌6月に体調を崩し、8月21日に福岡城において死去した[1][2]。29歳。なお、幕府には10月24日死亡と届けた。後嗣は生前に仮養子として指名していた一橋徳川家当主・徳川治済(養父・黒田治之の兄)の三男・雅之助(黒田斉隆)を末期養子に迎え[2]、京極家からの藩主は1代限りとなった。